長崎・浦上聖地巡礼・秘密教会

潜伏キリシタンの歴史を知ることができる聖地巡礼地
           説明文 銘板碑文等参考

浦上周辺の聖地巡礼・秘密教会

 長崎・浦上地区には、信徒が築いき信仰の支えとしてきた浦上天主堂のほかにも、キリシタン弾圧に苦しみながらも信仰を貫いた潜伏キリシタンの歴史を知ることができる聖地巡礼地が多く点在する。
浦上天主堂周辺の聖地巡礼地・秘密教会
  ●サンタ・クララ教会跡 ●ベアトス様の墓 ●帳方(ちょうかた)屋敷跡(現在:如己堂・永井隆記念館) ●聖フランシスコ・ザベリオ堂跡 ●聖ヨゼフ会堂跡 ●十字架山 ●聖マリア堂跡 ●マリアの山 ●カトリック本原教会 ●小峰のルルド ●赤城聖職者墓地

秘密教会とは
 1865年(慶応元)信徒発見後も信仰の自由がなかった浦上のキリシタンたちは、大浦天主堂から密かに神父たちを迎えて、洗礼をうけ、ミサを行い、教えを学ぶための4つの秘密教会(聖フランシスコ・ザベリオ堂、サンタ・クララ教会、聖ヨゼフ堂、聖マリア堂)を作った。大浦教会の巡回礼拝堂。教会といっても12~15坪の小さな民家造りで、奥に「祭壇」があった。1867年(慶応3)これらの教会は一斉に摘発され、中心人物も捕らえられ、最後の迫害である「浦上四番崩れ」となっていく。

サンタ・クララ教会跡(サンタ・クララ記念碑)・<秘密教会>

 長崎市大橋町(旧浦上村家野郷川上)

サンタ・クララ教会跡(サンタ・クララ記念碑)

 日本におけるキリスト信者発見百周年記念日の1965年(昭和40年)3月17日、ローマ教皇パウロ六世の特使マレラ枢機卿により、このサンタ・クララ教会記念碑が祝別された。
 この地に1603年 (慶応8年)に建てられたサンタ・クララ教会はイスパニア人の宣教師アル ウァレス神父が司牧する浦上では、当時ただ1つの教会だった。
 徳川幕府のキリシタン禁制によって、この教会が破壊されたあと、教会で働いていた孫右衛門は、神父を失った村人の間に、帳方・水方・聞役という”潜伏キリシタン”の地下組織をつくって信仰を固めた。その後の250年、村人たちはこの教会の跡を祈りの場としていた。毎年夏になるとここに集まり、盆踊りをよそおって祈りをとなえていたという。
 司祭のいない迫害の時代に、信者の指導者が信仰を伝えるために献身し、信者発見後は、司祭と信者が一体となって働いた使徒職活動を記念すると共に、この教会の保護者だった聖女クララのご伝達を祈るために、このサンタ・クララ記念碑が建てられた。

アクセス
 長崎電鉄電停「大橋」下車徒歩3分、国道206号線浦上川に架かる大橋のたもと

ベアトス様の墓

 長崎市橋口町(塔の尾)

ベアトス様の墓

 徳川幕府のキリシタン弾圧が激しくなった頃、本原郷小峰(現在の石神町)に、百姓のジワンノ(ジョアン)ジワンナ(ジョアンナ)夫妻とミギル(ミカエル)という親子3人のキリシタンがいた。この一家は信仰と徳によって、浦上村の村人の尊敬と信頼をあつめていたので、役所は一家を改宗させて村人達を背教に導こうと見せしめのために井水(いがわみず)で水責めにされたが、背教しようとはしなかたので、この地で火あぶりの刑にされ殉教地に葬った。
 生命をかけて神への信仰と愛に生きたこの一家の美しい精神を村人達は忘れず、九世代、350年もの間、ここを「ベアトス様の墓」として大切にしてきた。ベアトスとはポルトガル語で敬虔な生涯と尊い死によって永遠の幸福を受けていると信じられる人々をいう。殉教の年代は、わからないが寛永の頃であったろうと推測されている。

アクセス
 長崎市橋口町 山里小学校下(サンタ・クララ教会跡から徒歩6分)

帳方(ちょうかた)屋敷跡

 現在地:如己堂・永井隆記念館

帳方(ちょうかた)屋敷跡

 1614年(慶長18年)、徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外に追放、教会はすべて破壊されてしまった。当時長崎地方には約5万人のキリスタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗はせず、以後250年間潜伏した。この間、教義を伝えるための組織がつくられた。
 永井隆博士が晩年をおくった地として知られる如己堂がある場所は、潜伏キリシタン時代の指導者である張方屋敷跡だった。帳方とは司祭の助力なしに教義、儀式の維持と伝承につとめる互助組織で、浦上ではサンタ・クララ教会を世話していた孫右衛門によって組織された「総頭(そうがしら・帳方)」、「触頭(ふれがしら・水方(洗礼を授ける役)」、「聞役(指令伝達役)」の三役体制の最高責任者・総頭のこと。
 帳方は最高責任者として日繰り(教会暦/バスチャンごよみ)を所持して年間の祝日や教会行事の日を繰り出し、祈りや教義を伝承していたという。初代帳方は孫右衛門がなり、以後その子孫が受け継ぎ、1856年(安政3年)、浦上三番崩れでミギル吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)が検挙されるまで七代続いた。

アクセス
 ベアトス様の墓から徒歩8分(如己堂・永井隆記念館)
帳方屋敷跡(如己堂・永井隆記念館)マップ

聖フランシスコ・ザベリオ堂跡・<秘密教会>

聖フランシスコ・ザベリオ堂跡

 厳しいキリシタン禁令のなか、浦上のキリシタン達は当時、4つの秘密教会を設け、大浦天主堂の巡回教会として密かに神父を迎え、洗礼を受け教理の勉強をしていた。この地がその一つの、聖フランシスコ・ザべリオ堂跡である。1867年(慶応3年)7月15日午前1時、幕府の捕方がここへ押し入り、泊まっていた守山甚三郎と松田喜助という人物が捕らえられ、各地で捕らえられた68人の信徒と共に桜町の牢に打ち込まれることとなった。
 このことが全村総流配となった浦上四番崩れへとつながったとされる。明治元年6月1日を初めとして中心人物114名が、萩、津和野、福山へ流された。

アクセス
 長崎市橋口町 如己堂と平和公園の中間の道筋にある。[帳方屋敷跡(如己堂)から徒歩3分]

聖ヨゼフ堂跡・<秘密教会>

聖ヨゼフ堂跡

 現在、辻町のお告げのマリア会十字修道院がある敷地内に、秘密教会の一つ、聖ヨゼフ堂跡がある。この地は潜伏キリシタンのリーダー的存在、高木仙右衛門の屋敷だった。幕府の捕方がここへ押し入り、仙右衛門と次男・敬三郎は寝込みを襲われ捕われる。これも浦上四番崩れへとつながった出来事です。また、仙右衛門の長男・高木源太郎は、明治15年(1882)プチジャン司教の手によって深掘達右衛門、有安浪倉と共に、キリシタン復活後の日本最初の邦人司祭として叙階された人物。いずれも司祭館神学校(大浦天主堂の隣)で学んだ生徒である。

アクセス
 県営バス循環:聖フランシスコ病院前下車・バス停前にある酒店脇の道路をうみのほし保育園方向へ下り。右手にある、レンガ塀のお告げのマリア修道会敷地内にある。
 聖フランシスコ・ザべリオ堂跡より徒歩約20分

十字架山(ローマ教皇指定巡礼地)

十字架山(ローマ教皇指定巡礼地)

 浦上切支丹殉教の歴史を語る道標であり、信仰の遺産でもある十字架山は、1881年(明治14年9月)当時の浦上教会主任プト師を中心として流配から生き残って帰ってきた信徒達によって築造された。
 禁教250年、幕府の厳しい弾圧と追害のなかで、生きては血を流し、生命を献げて信仰を守りぬき、死してはその功徳をもって子孫の信仰を守るため苛酷な拷問に耐え、信仰の自由を守り通したことへの神の加護を感謝し心ならずも踏絵を行った信者の罪と多数の信者を殺りくした為政者を救していただくために贖罪と感謝の場所として主キリストの御受難の聖地カルワリオに似たこの丘を選んで築造された。
 当時の信者たちは競って労力奉仕に出ました、十字架山にある大十字架の台石には4尺角もある台石もあり60人の屈強な男たちによって本原郷「いしがみ」の石切り場から7日間を費して頂上まで運び上げられたといわれています。
 1950年(昭和25年)、当時の長崎教区長・山口愛次郎司教がローマを訪問。教皇ピオ十二世に謁見のさい、十字架山を公式巡礼地と指定された。栄誉ある祖先の遺徳を偲ぶ聖地として巡礼者が絶えない。
十字架の道行

アクセス
県営バス循環「平の下」下車、バス停横(登口表示あり)の石段を登り、途中に十字架道紀念碑があり、さらに登りきった場所にある、徒歩約13分。

十字架山登り口

十字架山登り口

十字架道紀念の碑

十字架道紀念の碑

聖マリア堂跡・<秘密教会>

聖マリア堂跡

 4つの秘密教会の一つ、聖マリア堂跡。慶応3年(1867)7月15日早朝、最後の水方(当時、神父の代りに洗礼を授けていた人)を務めた又一方の裏山にあったこの聖マリア堂では、ロカイン神父を迎え朝の礼拝が行なわれていた。ところが、とうとうここにも幕府の手がまわり、ロカイン神父は難を避けたが、又一の子で伝道士を務めていた友吉は捕らえられ、他の信徒153人と共に津和野に流配されることになった。ここもまた浦上四番崩れへとつながった場所といえる。

アクセス
 十字架山中腹から横道に入り徒歩約5分
 県営バス循環「平の下」下車:バス停のすぐ横の階段を登る途中にある、約1分

カトリック本原教会(聖ペトロ・バプチスタ)

カトリック本原教会 聖ペトロ・バプチスタの銅像

 昭和27年(1952)2月6日、浦上小教区に属していた本原3丁目クラブを聖パウロ三木に捧げて仮聖堂として発足。
 かねてから長崎で宣教活動中の聖フランシスコ会が昭和34年(1959)6月13日、現在地に修道院を設立すると共に、仮聖堂もこの地に移転した。翌年11月1日、本原小教区新設に際し司牧を聖フランシスコ会に委託された。昭和37年(1962)5月20日、現在の円形の新聖堂献堂。教会入口には、日本二十六聖人である聖ペトロ・バプチスタの銅像が浦上一帯を望むように建てられている。

アクセス
 県営バス 三ッ山口循環線 本原教会前下車
 聖マリア堂跡から徒歩10分
カトリック本原教会マップ

マリアの山(一本木山)

マリアの山(一本木山) マリアの山(一本木山)2 マリアの山(一本木山)3

 聖フランシスコ修道院の手で聖母像が建設され、マリアの山と呼ばれるこの一本木山は、潜伏キリシタンが密かに集まり祈りを捧げた場所です。浦上四番崩れが始まった時、聖マリア堂から難を避けたロカイン神父はこの山に隠れ、信徒たちに秘跡(キリスト教において神と人間とを仲介し、神の恵みを人間に与える儀式)を授け、殉教に堪えるように精神的準備をさせた場所といわれている。
 また、往時マリアの山の中には、清い泉が湧き出ていて、迫害時代からプチジャン神父の頃までこの泉の水を使って洗礼を授けていた由緒ある清泉があった。

アクセス
 カトリック本原教会の敷地内にある、徒歩2分

小峰のルルド

小峰のルルド2 小峰のルルド聖母マリア 小峰のルルド

 聖母マリアは、1858年南フランスのピレネー山脈の山麓にあるルルドで、羊飼いの少女ベルナデッタの前に現れた。1858年2月11日から4月7日まで、計18回にわたって出現されたという。「私は、無原罪の御宿りです」と名乗られ。また、「罪人のために祈りなさい」と言われました。
 そのしるしとして、多くの奇跡があり、特に、聖母に言われた場所を掘ってみると泉が湧き出て、その泉の飲んだり、浸した病人が奇跡的に治るなどのことが続発しました。今では、ルルドは有名な巡礼地となっている。
 この奇跡が起こったという泉がある巡礼地にちなんで、フランシスコ会修道士ヨゼフ岩永氏は、原爆で精神的・肉体的打撃を受けた人達の心の支えにと、浦上にルルド建造の計画に燃え、三原町野中の北西急傾斜地の下方に、昔から清水の流れ出る最後水(地名)を適地と定め、1950年(昭和25年5月)小峰のルルドが完成。
 この地は現在でも多くの信徒たちが信仰の場所としている。

アクセス
 聖フランシスコ病院前バス停より高尾小学校側に坂を約100m下り、川沿いを左に折れ20m程の所にある。
小峰のルルドマップ

赤城聖職者墓地

赤城聖職者墓地

 浦上の四墓地(経の峰、赤城、こうらんば、阿蘇)の一つ赤城墓地は典型的な長崎のキリシタン墓地である。旧本原郷の墓地であるこの墓域には、キリシタン復活後、長崎教区の司牧にあたった歴代の司教・司祭の墓地(1895年(明治28年)に司祭叙階1年半足らずで、遭難した司祭のために墓碑が建てられたのがはじまり)や、キリシタン史学者「日本キリシタン殉教史」「浦上四番崩れ」等の著者・片岡弥吉氏の墓、また、墓石に没年昭和20年8月9日(長崎原爆投下日・原爆死没者)と刻まれた墓が多くある。

アクセス
 小峰のルルドから高尾小学校に向かって坂を上り、右手、高尾小学校前バス停脇の道筋を下った場所。浦上・高尾町5番地
赤城聖職者墓地マップ

長崎浦上周辺の聖地巡礼地

所在地:出発地点・大橋電停下車 各所へはページ内のアクセスを参考にしてください
アクセス:長崎駅前電停から赤迫行きに乗車し、大橋電停下車
浦上周辺の聖地巡礼地出発地点サンタ・クララ教会跡マップ