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長崎丸山・思案橋界隈巡り(歴史の街長崎観光ぶらり散策)

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歴史と出会える街長崎

長崎丸山・思案橋界隈巡り

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(写真撮影2005・7/25〜7/31・説明文 銘板碑文等参考)

長崎丸山・思案橋界隈巡り(1)

 江戸の吉原、京の島原とともに、日本三大遊郭(三場所)の一つとして知られている長崎の丸山。丸山には主に長崎の町民や上方の商人が多く出入りしていたが、丸山の遊女は、唐人屋敷やオランダ屋敷(出島)への出入りが許され、異国人との交流があったのが特徴。
当時、“江戸のきっぷに京都の器量、長崎の衣装で三拍子揃う”といわれたほど、長崎丸山遊女の衣装は華やいだものであった。いかに長崎の丸山が栄えていたかを江戸の文学者井原西鶴が『日本永代蔵』に、「長崎に丸山といふところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし」こう記している。 上方の商人達は、随分と丸山にお金を落として帰宅したようです。
長崎では、丸山町、寄合町を総称して丸山と呼んでいます。かっては上臈町(じょうろうまち)・女郎町・傾城町(けいせいまち)・遊女町・二丁町・内町・囲などとも称した。記録によると延宝時代(1673〜)には遊女屋敷74軒、遊女766人。 全盛期の元禄時代(1688〜)には遊女は丸山・寄合町あわせて1,443人いたといわれる。
昭和32年4月1日「売春防止法」が施行され、1年間の猶予措置の後閉鎖、丸山の320年が終わった。

長崎思案橋跡の碑

思案橋跡の碑

歌にドラマに描かれ、有名となった思案橋。
 路面電車の思案橋電停の道路をはさんだ両側に橋の欄干を模した思案橋跡の碑が建てられている。
この付近にはかって玉帯川が流れ、花街時代、遊郭へ“行こうか戻ろか”と思案したので名付けられたという遊郭への門前橋、思案橋が架かっていた。(昭和31年に道路拡張のためこの一帯が暗渠になる)
思案橋という名前は、以前、川口橋、黒川橋と呼ばれた時代もあった。初架は1592年といわれ、土橋から木の橋、屋根が付いた木廊橋、明治8年(1875)に火災で焼失し石橋に架け替えられ、大正3年(1914)にはコンクリートを塗った鉄橋になり、幾度となく変転を重ねたという。 昭和31年(1956)道路拡張に伴い撤去、昭和45年(1970)思案橋跡に欄干の一部が復元された。思案橋という名前が付いた時期は不明だが、おそらく丸山遊郭全盛期の頃だろうといわれている。

思切橋

思切橋 (思案のはて、決意を決めて渡った橋)

“行こうか戻ろか”と思案しながら思案橋を渡り、男達は遊郭の入口「二重門」が見える場所にあった思切橋で立ち止まり、この橋の欄干に刻まれてある“思切”の文字で、迷いを打ち消し、決意を固めこの橋を渡り二重門をくぐったのだろう。 思い切ってこの橋を渡る男達の光景が見えてくる。思案橋とバランスをとって架かっているのがまた洒落ている。
現在は、前の場所より少し移動した見返り柳の下に移されている。

二重門(山の口)

丸山入口にあり、丸山町と船大工町の境界となっていた。遊女町と船大工町の二つの瓦葺き門が相接していたのでこの名が付いた。このもんは雨傘をさして通れば傘が門の上手につかえるほど低かった二重門は明治5年10月、遊女屋の廃止後に取り除かれた。

見返り柳

見返り柳(花街帰りの人々の様子が名前に付いた柳)

思切橋の横に、明治時代に植えられたといわれる1本の柳の木がある。 花街遊郭へと足を運び遊んだ男達は帰り道、ここで振り返り丸山遊女との別れを惜しんだのだろう。丸山遊女との別れを惜しむ当時の情景が名前に付いた見返り柳。

忍び坂

忍び坂(花街帰りの人々がひっそり通った坂)

思切橋近く、丸山公園から大徳寺公園へと続く「勅使坂(ちょくしざか)」途中から、船大工町へと抜ける坂道は忍び坂と呼ばれている。かつて丸山遊郭で遊んだ男達が帰る際、丸山の大門を通るのは気が引けるというので、 この裏階段を忍んで通っていたことから名付けられたのだという。通りには大師堂があり、往時の風情をわずかに漂わせている。

長崎丸山・思案橋界隈
アクセス路面電車:長崎駅前電停〜正覚寺下(1番系)行きに乗車、思案橋電停下車
バス:長崎駅前南口バス停〜長崎バス田上・茂木・宮摺・北浦方面行き乗車、思案橋下車


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