長崎丸山・思案橋界隈巡り

丸山は、寛永末~昭和31年(1956)の間に栄えた長崎の花街
          説明文 銘板碑文等参考

長崎丸山(まるやま)・思案橋(しあんばし)界隈巡り

 江戸の吉原、京の島原とともに、日本三大遊郭の一つとして知られている長崎の丸山。丸山には主に長崎の町民や上方の商人が多く出入りしていたが、丸山の遊女は、唐人屋敷やオランダ屋敷(出島)への出入りが許され、異国人との交流があったのが特徴。
 当時、“江戸のきっぷに京都の器量、長崎の衣装で三拍子揃う”といわれたほど、長崎丸山遊女の衣装は華やいだものであった。いかに長崎の丸山が栄えていたかを江戸の文学者井原西鶴が『日本永代蔵』に、「長崎に丸山といふところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし」こう記している。上方の商人達は、随分と丸山にお金を落として帰宅したようです。
 長崎では、丸山町、寄合町を総称して丸山と呼んでいます。かっては上臈町(じょうろうまち)・女郎町・傾城町(けいせいまち)・遊女町・二丁町・内町・囲などとも称した。記録によると延宝時代(1673~)には遊女屋敷74軒、遊女766人。全盛期の元禄時代(1688~)には遊女は丸山・寄合町あわせて1,443人いたといわれる。
 昭和32年4月1日「売春防止法」が施行され、1年間の猶予措置の後閉鎖、丸山の320年が終わった。

思案橋跡の碑

長崎思案橋跡の碑

歌にドラマに描かれ、有名となった思案橋
 路面電車の思案橋電停の道路をはさんだ両側に橋の欄干を模した思案橋跡の碑が建てられている。
 この付近にはかって玉帯川が流れ、花街時代、遊郭へ“行こうか戻ろか”と思案したので名付けられたという遊郭への門前橋、思案橋が架かっていた。(昭和31年に道路拡張のためこの一帯が暗渠になる)
 思案橋という名前は、以前、川口橋、黒川橋と呼ばれた時代もあった。初架は1592年といわれ、土橋から木の橋、屋根が付いた木廊橋、明治8年(1875)に火災で焼失し石橋に架け替えられ、大正3年(1914)にはコンクリートを塗った鉄橋になり、幾度となく変転を重ねたという。
 昭和31年(1956)道路拡張に伴い撤去、昭和45年(1970)思案橋跡に欄干の一部が復元された。思案橋という名前が付いた時期は不明だが、おそらく丸山遊郭全盛期の頃だろうといわれている。

思切橋(思案のはて、決意を決めて渡った橋)

思切橋

 “行こうか戻ろか”と思案しながら思案橋を渡り、男達は遊郭の入口「二重門」が見える場所にあった思切橋で立ち止まり、この橋の欄干に刻まれてある“思切”の文字で、迷いを打ち消し、決意を固めこの橋を渡り二重門をくぐったのだろう。
 思い切ってこの橋を渡る男達の光景が見えてくる。思案橋とバランスをとって架かっているのがまた洒落ている。
 現在は、前の場所より少し移動した見返り柳の下に移されている。

二重門(山の口)

 丸山入口にあり、丸山町と船大工町の境界となっていた。遊女町と船大工町の二つの瓦葺き門が相接していたのでこの名が付いた。
 このもんは雨傘をさして通れば傘が門の上手につかえるほど低かった二重門は明治5年10月、遊女屋の廃止後に取り除かれた。

忍び坂(花街帰りの人々がひっそり通った坂)

忍び坂

 思切橋近く、丸山公園から大徳寺公園へと続く「勅使坂(ちょくしざか)」途中から、船大工町へと抜ける坂道は忍び坂と呼ばれている。
 かつて丸山遊郭で遊んだ男達が帰る際、丸山の大門を通るのは気が引けるというので、この裏階段を忍んで通っていたことから名付けられたのだという。
 通りには大師堂があり、往時の風情をわずかに漂わせている。

見返り柳(花街帰りの人々の様子が名前に付いた柳)

見返り柳

 思切橋の横に、明治時代に植えられたといわれる1本の柳の木がある。
 花街遊郭へと足を運び遊んだ男達は帰り道、ここで振り返り丸山遊女との別れを惜しんだのだろう。
 丸山遊女との別れを惜しむ当時の情景が名前に付いた見返り柳。

史跡料亭 花月 県指定史跡(昭和35年指定)

史跡料亭 花月 県指定史跡 向井去来の句碑

 花月は寛永19年(1642)に開業した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に文政元年(1818)頃造られた茶屋。長崎奉行の丸山巡検の際、花月と中の茶屋が休憩所に指定された。
 明治12年(1879)、丸山の大火で焼失、その翌年花月の名称は引田屋の一部に移転、大正末年引田屋は廃業したが花月の名称と庭園、建物は現在に継承されている。昭和35年(1960)には長崎県の史跡に指定され、全国的に珍しい史跡料亭となった。
 花月の歴史を物語る見どころも数多くある。坂本龍馬がつけたという刀痕が残る床柱がある「竜の間」、タイル貼りの床に和風の花の天井絵、中国の様式を取り入れた窓を使った日本で最初の洋間「春雨の間」。
 集古館には、映画「長崎ぶらぶら節」で有名になった名妓・愛八直筆の歌本や写真、向井去来の俳句や頼山陽の書、坂本竜馬直筆の書などが展示してあります。また、各部屋から見渡せる元禄時代に造られた庭園も素晴らしい。
「い邦つまや 登の希い世いと か里萬くら」(=いなづまや どの傾城と かり枕)玄関先には遊女の心情を詠んだと言われる向井去来の句碑がある。(傾城とは、城を傾けるほど夢中になる美女、つまり遊女のこと)
史跡料亭 花月マップ

長崎検番

長崎検番

 検番とは芸者屋の取締りをする事務所で、町内の検番「町検」に対して「山検」と呼ばれていた昔の長崎東検番は、その後合併(昭和24年)し長崎芸能会、そして(昭和52年)現在の長崎検番へとなった。
 全盛期は二百数十人の芸妓、舞妓がいたが、現在は14名。建物は元遊女屋の松月楼の跡(明治12年頃の築)。
 通りすがりに、時より心地よい三味線の音色が響いてくるときもあります。

梅園身代わり天満宮に通じる坂道と鳥居

天満宮に通じる坂道と鳥居

 長崎検番の角を曲がり細い坂道と石段を上がっていくと、元遊郭の面影がある建物を見ることができる。
 少し上がると鳥居が見えてくる、この二つの鳥居は梅園身代わり天満宮の鳥居、此処をくぐって右手が天満宮。丸山遊女や芸者衆が多く参詣していた。

梅園身代わり天満宮

梅園身代わり天満宮 「長崎ぶらぶら節」なかにし礼記念碑

 梅園身代わり天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田治右衛門によって創建され、丸山町の氏神様として親しまれています。
 元禄6年(1693)安田治右衛門が二重門にて梅野五郎左衛門に襲われ、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代わりに庭の天神様が血を流され倒れていたそうです。その後、この天神様を身代わり天神と呼ぶようになりました。
 明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲等の興行が行われるようになり、また、花街に接しているところから遊女や芸者さんが多く参拝していました。
 さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には長崎の文人墨客8人により天井絵120枚を奉納されています。

 なかにし礼氏の小説『長崎ぶらぶら節』の主人公である丸山芸者・愛八もよく参拝していた神社でもある。
 『長崎ぶらぶら節』の舞台となったことを記念して、ゆかりの地である梅園身代り天満宮内に、なかにし礼氏の書を刻んだ記念碑が建立されている。
梅園天満宮マップ

ここの天満宮には願いを叶えてくれる縁起物が数多くあります。

梅塚

梅塚
遊女や芸者さんたちは自分たちの生活に苦労がない事を願って、梅の種を天神様の身代わりとし、境内の玉垣の中に自分の家だ食べた梅の種をわざわざ持ってきていたのだという。

歯痛を取るといわれる狛犬

狛犬天保11年(1840)奉納
昔から梅園天満宮の狛犬さまは願いをかけると必ず叶えてくだらるといわれ、ことに歯の痛みがある人が狛犬さまの口に水飴を含ませると、たちまち痛みを取ってくださるといわれ歯痛狛犬として親しまれている。

撫で牛

撫で牛
自分の身体の痛みがあるところと、牛のその部分を交互に撫でると痛みがやわらぐといわれる撫で牛。

ボケ封じの撫で牛

ボケ封じの撫で牛
2代目撫で牛はボケ封じにご利益があるとか…

恵比寿石

恵比寿石
眺めて恵比寿様の笑顔を見ることができれば笑顔が美しくなり、さらに身体も心も美しくなるのだという石。

金比羅様
参拝すると金運も!!

中の茶屋(江戸中期の茶屋跡) 市指定史跡(昭和51年指定)

中の茶屋 中の茶屋庭園

 中の茶屋は、享保17年(1732)に筑後屋忠兵衛が宴席として丸山(寄合町)に設けた遊女屋「中の筑後屋」の茶屋。「千代の宿」と称した。
 花月楼と共に他郷の人々にも広く知られる丸山最良の茶屋だった。そのためこの茶屋には、内外の文人墨客も好んで訪れ、また長崎奉行の丸山巡検の際の休憩所に指定されたこともあった。
 その人気の程は幕末期にできた民謡『ぶらぶら節』に“遊びに行くなら 花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう”と唄われている。
 庭園は江戸中期(享保17年頃)のもので貴重な遺構の一つ。また、建物は昭和46年(1971)に隣家の火災で類焼したため、昭和51(1976)になるべく旧態に近い形で新築復元し、茶屋「千歳庵」を付加した。
 現在、中の茶屋は政治漫画やかっぱの絵で知られる長崎出身の清水崑画伯の作品を集めた展示館となっている。『かっぱ川太郎』などのかっぱシリーズや政治漫画、似顔絵など選りすぐりの作品を鑑賞することができる。
中の茶屋マップ

江戸時代中期に築かれた「中の茶屋」の庭園内を散策

中の茶屋庭園内保食大社鳥居

保食大社鳥居

富菊献納手水鉢

富菊献納手水鉢

中の茶屋庭園

中の茶屋庭園

庭前の梅、南天、アセビ

庭前の梅/南天/アセビ

 庭前の樹木に梅、南天、アセビなどを配し、飛び石に曲がりを付け、灯籠の脇には松を配するなどの、江戸中期の庭園の特徴をもっている。
 庭園は、かつては枝振りのいい松が幾本もあったという、現在残る老松は見上げる程高く、風格ある庭園の中で偉大な存在感を放っている。
 また庭の隅には稲荷の祠と保食(うけもち)神社の鳥居があり、その奥に“冨菊”と刻まれた手水鉢石がある。これは「中の筑後屋」の遊女だった冨菊が献納(寛政二(1790)庚戌歳十一月吉日)したもの。

丸山オランダ坂

丸山オランダ坂

 丸山遊女だけが出入りを許されていたオランダ屋敷(出島)へ向かうため、目立たない森崎坂からこの坂を通って、当時流れていた玉帯川から小舟に乗り丸山遊女は出島へ通った。
 オランダ屋敷(出島)行きの遊女が通るところから、この名が付いたとされる。遊女のオランダ屋敷(出島)行きは、江戸時代のことで、東山手にあるオランダ坂よりも以前のこと、つまりここが本家本元のオランダ坂といえる。

丸山芸者・愛八(松尾サダ)の墓

丸山芸者・愛八 丸山芸者・愛八の墓

 愛八・本名松尾サダは10才で丸山の芸者置屋に見習い奉公にで、明治24年(1891)18才で「愛八」としてお披露目。20~21才頃にはめきめきと腕を上げ、押しも押されもせぬ名妓になる。
 愛八はきっぷのいい竹を割ったような性格で、面倒見がよく義侠心の強い女性であった、他人のために尽くし、自分は貧しい生活を送っていたといわれる。
 昭和8年12月30日死亡、59歳。
 昭和6年(1931)2月、幕末に流行し、今も多くの人々に親しみ歌われる長崎の代表的民謡『ぶらぶら節』をはじめ10曲を歌ったレコードをビクターから出し、長崎の民謡が全国に知られるようになった。
 なかにし礼氏の小説『長崎ぶらぶら節』の主人公が明治時代の丸山芸者・愛八(映画では吉永小百合が扮した)。
 丸山を上った高台(上小島町)にある愛八の墓は、小説や映画を見たと思われるファンが訪れ、花を捧げお参りしている。

ぶらぶら節

 丸山遊郭を中心に、1850年代(嘉永年間)から歌われたお座敷歌。
 長崎の名物、風俗などが巧みに織り込まれ、歌詞も次々に加えられたが、大正の頃には忘れられた状態となっていた。
 愛八がビクターで吹き込みレコードとなって以来、全国に知られるようになり、今では長崎くんちの奉納踊りでは欠かせない。

ぶらぶら節抄訳版
  長崎名物はた揚げ盆まつり 秋はお諏訪のシャギリで 氏子がぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
  遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たヽいて 丸山ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
  はた揚げするなら金比羅風頭山 帰りは一杯機嫌で 瓢箪ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
  大井手町の橋の上で子供のはた喧嘩 世話町が五、六町ばかりも 二、三日ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
  梅園太鼓にびっくり目を覚まし 必ず忘れぬように また来て下しゃんせ
   しゃんせしゃんせと云うたもんだいちゅう
  沖の台場は伊王と四郎ヶ島 入りくる異船はスッポンポン
   大砲小砲を鳴らしたもんだいちゅう
  嘉永七年きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらに オロシャがぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
  紺屋町の花屋は上野の向う角 弥生花三十二文で
   高いたかいと云うたもんだいちゅう

長崎丸山・思案橋界隈アクセス

所在地:長崎県長崎市長崎市上西山18-15
アクセス:路面電車:長崎駅前電停~正覚寺下(1番系)行きに乗車、思案橋電停下車
     バ  ス:長崎駅前南口バス停~長崎バス田上・茂木・宮摺・北浦方面行き乗車、思案橋下車
丸山・思案橋界隈マップ