坂本龍馬と長崎関連場所

→ 前ページ 坂本龍馬と亀山社中跡
 説明文 銘板碑文等参考

亀山焼窯跡と亀山社中跡

 亀山焼窯跡(長崎市伊良林 2丁目15) ・ 亀山社中跡(長崎市伊良林2丁目7番24号)
 文化4年(1807)「垣根山焼」と称してオランダ船用の陶器の水瓶を焼いていたのが亀山焼の始まりといわれている。
 窯は亀山社中上の垣根山(旧・長崎村伊良林郷字垣根山)にあり、11室の登窯だった。文化11年(1814)、波佐見・長与などから陶工を招き高級白磁器を製作するようになるが、財政難のためついに慶応元年(1865)に廃窯となる。崎陽(長崎の別称)の名陶といわれた。
 長崎の崎陽三筆と称される木下逸雲・鉄翁・三浦梧門など一流画家が絵付けした数々の名品が残る。
 亀山社中跡周辺には、亀山焼の作業場や職人の宿舎があり、当時、町内の某家の別荘(旧・髙田茶屋とも)であったものを坂本龍馬たちが借り受けた。おそらく、小曾根家の斡旋によるものだろう。

坂本龍馬たちが会談(面会)に使った料亭・茶屋など

清風亭 旧・長崎榎津町(現・長崎市万屋町5)
 旧・榎津町にあった料亭。
 慶応3年(1867)1月、坂本龍馬はこの料亭で土佐藩参政・後藤象二郎と会談。仇敵だった二人がこの会談で意気投合し、以後、政治活動に邁進し、同年4月には土佐海援隊が成立、10月には大政奉還が実現した。
 清風亭は12畳と8畳の部屋が一室ずつで比較的手狭な二階建ての小さい料亭だったようだ。土佐藩とは関係深い料亭で、秘密の会議をする場所として打って付けの料亭。


料亭「玉川亭」 旧・本紙屋町(現・八幡町)
 幕末当時、中島川上流の大井手橋付近「本紙屋町(現・八幡町)」にあった川魚料理で有名な料亭。木造2階建、「隠し塀」のような高い塀があった。
 慶応3年(1867)8月、長州藩の桂小五郎(木戸孝充)が坂本龍馬と土佐藩重臣・佐々木高行に面会した料亭。大政奉還運動に危惧を示していた桂小五郎は武力討幕の必要性を強調した。
 このとき、長州藩(桂小五郎)が土佐藩に対して長州藩船の修理費用千両の工面を相談し、龍馬らが土佐商会を通して用立てたとされている。


藤 屋 (長崎市伊良林町一丁目8番)
 藤屋は伊良林町にあった大料亭で、フランス料理も出していた。天保元年(1830)に創業、慶応元年(1865)から西洋料理を手がける。今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業。
 坂本龍馬も土佐藩士・佐々木三四郎らと度々訪れている。慶応3年8月に龍馬が佐々木三四郎に宛てた手紙の中に藤屋のことが触れられている。また、イギリス商人・トーマス・ブレイク・グラバーも得意客だったようです。


吉田屋 (今の富貴楼・長崎市上西山町5-4)
 前身は千秋亭、代々吉田屋を名乗り、明暦(1655)の頃には長崎松の森に料亭吉田屋を営む。
 幕末には岩崎弥太郎や才谷梅太郎ら多くの幕末の志士達も来亭したと云われている。
 富貴楼は2007年(平成19)に国の登録有形文化財に指定されました。この料亭「富貴楼」という屋号ですが、伊藤博文が明治22年来亭の際に、経営者内田トミに「何かいい屋号はありませんか?」と依頼されて伊藤自身が命名し、当時の屋号「富士亭」から変更したものだということです。


内田屋
 イカルス号事件無罪の祝杯をあげた場所。
 上記の内田重吉の吉田屋(今の富貴楼)のことか?それとも榎津町の旅館「内田屋」のことか?


引田屋(花月)
 遊女屋引田屋の創立は、寛永年間(1624年頃)といわれ、花月は、文政元年(1818)の頃、引田屋の庭園内につくられた茶屋の名称である。
 花月は明治12年(1879)、丸山の大火で類焼、その翌年花月の名称は引田屋の一部に移転、大正末年引田屋は廃業したが花月の名称と引田屋の庭園・建物は現在に継承されてきた。
 イカルス号事件無罪の顛末を綴った龍馬の書類の草稿が残っている。


満喜楼
 丸山にあったと思われる。
 慶応3年(1867)6月2日 坂本龍馬は後藤象二郎邸で岩崎弥太郎を交え紀州藩との対策を協議し夕刻に五代才助を丸山満喜楼に招き会談。

小曾根邸跡

 現在の万才町、長崎地方法務局の場所(長崎市万才町8-16)
 小曾根家は、江戸から明治にかけて、長崎を代表する豪商だった。平戸の貿易商・平戸道喜が家祖で、道喜は1605年(慶長10)年平戸から長崎(本博多町)に移り、貿易商で財をなし、五島町・樺島町に倉庫7棟を持つ大商人となる。永昌寺(玉園町)は道喜の別荘だったが、妻が同寺に寄進した。
 出島を構築した25人の出島町人の一人で、築城技術を生かし工事の指揮監督を司った采配人。また、1648年(慶安元)に眼鏡橋を修復したのも道喜だった。六左衛門の子どもである乾堂は、聡明で書画に長じ、篆刻(てんこく)に巧みだったことで知られる人物。 特に隷書(れいしょ)が天下一品と称されていた。幕末に焼失。
 この屋敷へは勝海舟、坂本龍馬などの志士がよく出入りしていた。乾堂の弟・英四郎は海援隊の経理担当であった。
 また、海援隊の近藤昶次郎(ちょうじろう)が亀山社中との約束の中でイギリスへ独断で渡航しようとした疑いが発覚し、小曽根邸の一室・梅ノ間で切腹した。晧台寺(長崎市寺町)後山にある小曽根家の墓には、乾堂の墓はなく、平戸道喜の墓碑と共に近藤昶次郎の墓があり、墓石には坂本龍馬によって別名「梅花書屋(ばいかしょおく)氏之墓」と刻まれてある。
 坂本龍馬は亀山の社中でよりも、小曾根邸で活動することが多かった。また、龍馬の妻お龍は長崎に滞在中(慶応2年6月から翌年2月まで) 小曾根家別邸に身を置き、小曾根乾堂の娘・キクから月琴を習い、またかつて高島秋帆の門下で鉄砲の名手でもあった小曾根英四郎から、短銃の稽古をうけました。
 慶応3年海援隊結成の会議が小曾根邸で行われ、のち「海援隊」の本拠地となる。

大浦屋お慶屋敷跡

 長崎市油屋町2番
 油屋町の油問屋・大浦太平次の娘のお慶は、嘉永六年(1853)、21歳のとき肥前嬉野茶の販路を海外に求め、兼ねてから親交があったオランダ通詞の品川藤十郎の手引きで出会った出島在留のオランダ人テキストルの協力を得て日本脱出に成功。輸出船が港を出るまでトランクの中に身を隠していた話は有名だ。
 日本茶の輸出方法と需要の状況を把握し帰国したお慶は日本茶を英米に輸出することになり、日本における製茶貿易の皮切りを果たした。
 その後諸外人の信用を得てばくだいな利益を得て大金持ちになったが、独り占めせず、その利益を国事に奔走していた坂本龍馬、高杉晋作、大隈重信などを援助したことで知られる。
 慶応2年8月、龍馬はお慶の屋敷で後藤象二郎と会見したという。
 お慶は、明治17年56歳で死去。お慶の墓石は清水寺本堂から100m程上った隣町の高平町にある。

晧臺寺(曹洞宗・海雲山 長崎市寺町1-1)と小曾根家墓所

 慶長13年(1608)、備前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)飯盛山洪徳寺の第七代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
 大仏殿・蓮華台には長崎最大の高さ3.4メートルの銅像昆慮舎那仏坐像が安置してあります。
 坂本龍馬遭難の1ケ月後、海援隊を中心に縁の人々によって皓台寺で龍馬の慰霊祭が行われた。
 皓台寺後山の小曾根家の墓所には、龍馬や亀山社中の活動をサポートした小曾根英四郎や亀山社中同志であった近藤昶次郎の墓がある。

福済寺(黄檗宗・分紫山 長崎市筑後町2-56)

 崇福寺、興福寺とともに長崎三福寺の1つ。戦前の建物は国宝に指定されていましたが1945年8月9日の原爆で大破、大雄宝殿も焼失した。今は巨大な観音像「万国霊廟長崎観音」がある。
 元治元年1864、外国艦隊による下関攻撃に備えるため、幕府は勝海舟を長崎に派遣。この時、目付・能勢全之助とともに初めて長崎に坂本龍馬は同行し長崎の地を踏み、その時の逗留した寺。

聖福寺(黄檗宗・万寿山 長崎市玉園町3-77)

 玉園町にある長崎四福寺の1つ。延宝5年1677鉄心によって開創。同寺は幕末維新以後、広東の人達が多く帰依、広東寺と称された。天王殿は長崎の他の黄檗寺院にはない形式の建物である。
 ジャガタラお春の碑、7代目市川団十郎が先祖供養と子孫繁栄を祈願して建立した供養塔も境内にはある。大雄宝殿横にある鬼塀が有名。
 「いろは丸海難審判交渉」の場。土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次朗とのトップ会談の舞台となった。交渉の場を長崎にすることで、海援隊側に有利に進んだとも言われている。

本蓮寺(日蓮宗・聖林寺 長崎市筑後町2-10)

 筑後町にある日蓮宗の大寺院。元和6年1620、大村本経寺住職の日慧が開創。
 広大な敷地を誇るこの寺は、長崎三大寺といわれていたが1945年8月9日の原爆で全焼。キリシタン時代の数少ない遺構・南蛮井戸跡 が残っている。
 長崎海軍伝習所時代(1855~1859)の勝海舟の宿舎(塔頭・大乗院に4年ほど滞在)。
 同寺墓地には慶応4年18681月、海援隊が長崎西奉行所を占拠した時、誤って薩摩藩士を射殺した責任をとり切腹した海援隊士・沢村惣之丞の墓がある。

光源寺(浄土真宗・巍々山 長崎市伊良林1丁目4-4)

 江戸時代初め、筑後柳川(現在の福岡県瀬高町)にある光源寺僧・松吟(しょうぎん)は真宗の布教のためキリシタン全盛期の寛永初年(1625頃)来崎し、布教活動をはじめ。時の第13代長崎奉行馬場三郎左衛門利重より銀屋町(銀屋町自治会館前)に寺地を与えられ、寛永14年(1637)筑後と同名の光源寺を開山。  しかし延宝4年(1676)付近の火災により類焼したので伊良林(現地)に移転した。
 飴屋の幽霊談話があり、延享2年(1745)の箱書のある産女の幽霊像が保存されています。
 二宮又兵衛墓「光源寺後山墓地」
 亀山社隊士二宮又兵衛墓地。坂本龍馬の死後、亀山社中は宇和島藩士二宮又兵衛等によって運営されたが、3年8月12日に又兵衛が暗殺され、社中は自然と解散した。

亀山社中メンバー

土佐10名・坂本龍馬、近藤長次郎(昶次郎)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、高松太郎、新宮馬之助、池内蔵太、石田英吉、山本復輔(山本洪堂)、中島作太郎(信行)、沢村惣之丞
越前3名・小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後2名・ 白峰駿馬、橋本久太夫
紀州1名・ 陸奥陽之助(陸奥宗光)
讃岐1名・ 佐柳高次
因幡1名・ 黒木小太郎
出身地不明1名 ・早川二郎

近藤長次郎(こんどう ちょうじろう・昶次郎):土佐藩

 天保9年3月7日(1838年4月1日)-慶応2年1月14日(1866年2月28日)

近藤長次郎:土佐藩

 高知城下の餅菓子商「大里屋(おおりや)」伝次の長男として生まれる。幼少期から聡明で江戸に出て学問と砲術を学ぶ、砲術は高島秋帆から学んでいる。才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許された。勝海舟の門人となり航海術を修め、慶応元年(1865)の亀山社中結成に参加し、優秀な人材で「龍馬の片腕」とも呼ばれていた。
 この年、坂本龍馬は薩摩藩におもむき長州藩が軍艦・武器を購入するための名義貸しを申し入れ、薩摩藩の名義を借りた。長州藩のための軍艦・武器購入計画の手配が始まると、長次郎は中心的役割を果たした。しかし、慶応2年(1866)英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹した。
 龍馬の妻であるお龍が、後に回顧録「千里駒後日譚」の中で、長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。
 墓は、皓台寺(長崎市寺町)の裏山小曾根家の墓地内にあり、「梅花書屋氏墓」と記されてある。

沢村惣之丞(さわむら そうのじょう):土佐藩・高知県生まれ

 天保14年(1843) ~ 慶応4年1月25日(1868年2月18日)

 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市潮江)の浪人の子として生まれる。文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862)坂本龍馬と土佐を脱藩した。
 その後、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と常に龍馬と共にし、龍馬の活動を支援しました。沢村惣之丞は学問を好み、特に英語と数学に優れていたといい、また長府藩士にも航海術を教えている。
 慶応3年(1867年)には坂本龍馬殺害事件の容疑者であった紀州藩・三浦休太郎の暗殺計画に参加するが、失敗に終わった。
 慶応4年(1868)1月、維新の混乱から無人状態となった長崎奉行所を、沢村ら海援隊が占拠し、長崎の町を警備した。しかし1月14日の警備中、薩摩藩士・川端平助を誤殺してしまう。沢村は薩摩藩との反目を恐れ、海援隊本部で責任を取り切腹した。
 沢村惣之丞の墓は、現在でも長崎市筑後町の本蓮寺に残されています。

→ 前ページ 坂本龍馬と亀山社中跡

亀山社中記念館アクセス

 所在地:長崎県長崎市伊良林2-7-24
 路面電車:長崎駅前電停~蛍茶屋行き(3番系統)に乗車、公会堂前電停か諏訪神社前で下車、徒歩約20分
 開館時間:午前9時~午後5時 休館日/なし
 入館料:一般 個人/300円 団体/240円 高校生 個人/200円 団体/160円 小・中学生 個人/150円 団体/120円
 (団体は15名以上より)
 駐車場:なし
  亀山社中跡マップ