坂本龍馬と亀山社中跡

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 説明文 銘板碑文等参考

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

「世界の海援隊」を夢見た男・坂本龍馬
《人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある》
《おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ》
    (坂本龍馬の名言)

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

 天保6年11月15日(1836年1月3日)~慶応3年11月15日(1867年12月10日)
 土佐藩(高知県)、高知城下の町人郷士坂本家の次男として生まれた。坂本家はもともと商家で、龍馬は自由で合理的な町人気質に触れながら幼少の頃から剣術を学び育った。
 土佐藩を脱藩し、幕臣勝海舟のもとで航海術を習得し、ここ長崎では日本初の貿易会社を兼ねた政治結社・亀山社中を結成して海運業で才能をを発揮する。その後、海援隊を組織する。
 一方で対立していた薩摩藩と長州藩の間を調停し、薩長同盟の締結に尽力。いろは丸号沈没事件談判、イカルス号事件調停、さらに、徳川慶喜の大政奉還を画策し、明治維新を大きく推し進める原動力となった。
 京都近江屋にて何者かに襲われ暗殺され、「世界の海援隊を作る」という夢半ばにして人生の幕を閉じた。
 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹

亀山社中跡(かめやましゃちゅう・あと)(長崎県指定史跡)

亀山社中屋敷外観 亀山社中跡(かめやましゃちゅう・あと)

 場所:長崎市伊良林2-7-24(旧長崎村伊良林郷)
 「社中」とは人が集まると言う意味であるが、亀山社中は軍事的、政治的かつ商業的な組織であった。
 土佐藩を脱藩した坂本龍馬や神戸で海防を学んだ海軍塾生同志らは、慶応元年(1865)海運や貿易さらに政治活動のため長崎入り。拠点を亀山焼窯跡(長崎村伊良林郷:現在の長崎市伊良林) に置き、薩摩藩などの援助のもと商社を立ち上げ、地名から「亀山社中」と称した。亀山社中は長崎の港や長崎奉行所・長崎街道が眺望できる情報収集の適地でもあった。
 当初、交易の仲介や物資の運搬などで利益を得、さらには薩摩藩・長州藩の橋渡し役となり運営は順調であったが、次第に難題が山積、慶応3年(1867)4月には後藤象二郎率いる土佐商会(土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)の傘下となり土佐藩から資金援助を受けるようになる。このとき「海援隊」に改称。
 本部は小曽根邸(現在・長崎地方法務局)へ移る。隊の任務は「運輸・射利(しゃり)・開拓・投機・本藩の応援」と定めたが、実際は薩長両藩のため「輸送・武器船舶購入と和解提供の斡旋」など独自の活動をした。
 しかし坂本龍馬の暗殺以降、求心力がなくなり慶応4年(1868)4月藩命により土佐商会とともに海援隊も解散となる。

海援隊旗

坂本龍馬と海援隊旗

 勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元年(1865)、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せた。慶応3年(1867)4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたのを期に土佐藩が引継ぎ、場所を小曽根邸へ移されたとき「海援隊」と改称された。
 龍馬が隊長となり、海援隊約規、それと船印として「赤白赤」の旗印も決めた。
 この旗は、「二曳(にびき)」と呼ばれた。この時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークであり、やはり「二曳」と呼ばれている。

龍馬とお龍

お龍

 天保12年(1841)、医師の楢崎将作の長女として生まる。父の将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ獄死。このため、お龍と母、幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍は母・弟妹を養うために旅館「扇岩」で働くが、間もなく旅館を辞めて天誅組(てんちゅうぐみ)残党のまかないとなる。 しかし天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった。このとき坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することとなった。
 慶応2年(1866)、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸(実際は浴衣であった)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる(寺田屋事件)。その直後に龍馬と結婚し、小松帯刀の誘いで薩摩藩の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の新婚旅行であったといわれている。
 慶応3年(1867)、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいた為、難を逃れた。龍馬死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、慶応4年(1868)3月にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉・坂本乙女の元に身を寄せたが、間もなくそこを立ち去る。このとき、龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係ない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

龍馬と長崎の女

女富商・大浦慶

 龍馬が愛した長崎の女に「お元」という丸山芸者がいた。長崎の漁村で茂木びわで知られる茂木の生まれ、よく気が利き、男好きする美貌の持ち主だったという。琴や三味線がうまく、龍馬は音曲を存分に楽しむことができたとか、また芸者「錦路」も龍馬を慕ったと言う。
 龍馬は、海援隊の本部があった小曽根邸に、おりょう(龍)としばらく住んでいたが、おりょうが下関に移ってからは、このお元と過ごし、くつろいだのだという。
 また、龍馬が恩恵を受けた女性が長崎にも居た。大浦慶である。長崎油屋町の富商として名高い女性である。龍馬とはイギリス武器商人グラバーをはさんでの出会いであった。「お慶屋敷」は龍馬ら亀山社中の若者の秘密の拠点でもあり、「肝ふとかお慶さん」と親しまれた。
 青年志士と遊女との関係もまた深い。ある時は傷つく志士を手当てしてかくまい、情報提供もまた連絡の役を果たす事もあった。国家の大業を目指す志士たちの心意気は彼女たちには魅力的であったろう。

龍馬が愛した長崎丸山芸者「お元」の出生地と言われる長崎茂木村とは
  天正8年(1580)、長崎6町と茂木村はイエズス会領として大村純忠らによって寄進されます。
  天正15年(1587)、豊臣秀吉の伴天連追放令によって長崎6町と茂木、浦上が没収される。
  慶長19年(1614)、徳川家康が禁教令を発布、禁教政策はこの後年を追ってきびしくなる。
  寛文9年(1669)、茂木村は長崎代官が支配。
  延宝4年(1676)、茂木村は天草代官、さらには島原藩の預かりとなる。
  明和5年(1768)、島原藩預かりの茂木村は長崎代官支配となる、この頃から踏絵が毎年実施される。
  元治2年(1865)、当時「フランス寺」と呼ばれていた大浦天主堂(日本26聖殉教者天主堂)の献堂式。
  明治元年(1868)、長崎府高来郡茂木村、翌2年、長崎県高来郡茂木村になる。
  明治6年(1873)、太政官布告によりキリシタン禁制の高札を撤去、禁教令廃止
  明治22年(1889)、西彼杵郡茂木村となる
  大正8年(1919)、茂木村に町制が敷かれ西彼杵郡茂木町となる
  昭和37年(1962)、長崎市に編入される。
※長崎茂木村には熱心なキリシタン代官・村山等安の別荘があった。
 村山等安(生年不詳(永禄5年頃) ~元和5年(1619)10月26日)・洗礼名アントニオは長崎代官(文禄2~元和2年)で熱心なキリシタンでキリシタン布教の便をはかった。
 等安は1609(慶長14)年、ドミニコ会に土地(現・長崎市勝山町桜町小学校敷地内)を寄進、この土地にサン・ドミンゴ教会が建てられた。
 慶長年間(1596年~1615年)、等安は茂木村に豪壮な別邸を建て、その別荘は濠で囲まれ、まるで城郭のようだったという。元和5年(1619)、キリシタンを擁護した事と大阪方と内通したという嫌疑で処刑される。現在、長崎代官アントニオ村山等安別邸跡の石碑が建つ場所は、等安没後、茂木庄屋宅や茂木ホテルなどが建てられた。

龍馬通り

 「龍馬通り」とは、寺町の深崇寺と禅林寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園へ至る小路の名称。
 長崎らしい坂道・階段が続くこの歴史探訪路には手作りの案内板が各処に設置されている。

亀山社中への道案内1

① 亀山社中へは、寺町の深崇寺と禅林寺の間から約200mほど坂道を登ります。

亀山社中への道案内2

② ここまでは、緩やかな坂道だすが、これからは、石段が続く。

亀山社中への道案内3

③ 中間地点100mで近藤長次郎さんのお出迎えの看板がある。

亀山社中への道案内4

④ あと60m地点では、陸奥宗光さんのお出迎えの看板。

亀山社中への道案内5

⑤ 石段の坂を登りつめ、右へ曲がり、約500m登ると龍馬の銅像へ。(石田英吉)

亀山社中への道案内6

⑥ ⑤より左へ5m行くと亀山社中の跡です。約5m先に龍馬のブーツがあります。

亀山社中屋敷外観

⑦ 龍馬が活躍した亀山社中の屋敷。龍馬がいた時代の屋敷に復元改築。

亀山社中跡の坂本龍馬像

⑧「坂本龍馬之像」は平成21年7月5日、若宮稲荷神社境内(伊良林)に移された。

坂本龍馬使用の井戸

⑨ 坂本龍馬が使用したといわれる井戸(亀山社中跡内)

龍馬のブーツ

龍馬のブーツ1 龍馬のブーツ2

 日本で最初にブーツを履いたといわれる男、坂本龍馬。当時土佐では身分制度が厳しく下級武士である郷士の家に生まれた龍馬は草履しか履けなかった。
 自由の地長崎で龍馬はブーツを履いき、何をおもい長崎の空を見上げたのか?。
 亀山社中創立130周年を記念して、平成7年(1995)10月28日、亀山社中創設130周年を記念して「亀山社中ば活かす会」が建立。
 龍馬のブーツをはき、舵輪に手をかければ、長崎の街並みが一望でき、龍馬や海援隊の気分が満喫できるかも。
 ブーツ本体:高さ 0.4m 長さ 0.6m 幅 0.2m

“坂本龍馬がゆく道”散策路

風頭山公園「坂本龍馬之銅像」 司馬遼太郎「龍馬がゆく」文学碑

 風頭山公園「坂本 龍馬之銅像」
 長崎県長崎市伊良林3丁目

 司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑は、風頭山公園にある坂本龍馬之像の脇に設置されている。文学碑には本書の次の言葉を抜粋して刻んである。
 外国船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがては日本回天の足場になる」ともいった。
 司馬遼太郎 「竜馬がゆく」より

良林亭跡

 長崎県長崎市伊良林2-9
 文久3年(1863)草野丈吉は、わが国で西洋料理専門店の先駆けである「良林亭」を開業しました。
 草野氏は18歳のとき出島阿蘭陀商館出入りの商人に雇われ、大浦居留地で外国人の使用人として使えます。その後オランダ軍艦のコックとなり西洋料理を学び、西洋料理の調理法を極めた。
 良林亭は、伊良林の自宅を改造し、6畳一間の部屋で、6人以上のお客様はお断りだったそうです。元治元年(1864)には店舗を他所に新築し、「自遊亭」、慶応元年(1865)に「自由亭」と改称。
 明治11年(1878)、馬町の諏訪神社前に進出しました。明治12年(1879)、アメリカ・グランド将軍が来日した際、ここでパーティーが開かれました。明治20年(1887)に廃業。自由亭時代の建物は、現在グラバー園内に移築されています。

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社

 長崎県長崎市伊良林2-10-2
 出来大工町の乙名・若杉喜三太が、自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられており、 代々の奉行、伊良林郷の鎮守の神として崇敬を集め、「古いお宮を若宮様」と親しまれている。明治維新前後には勤皇稲荷(勤王神社)と称し、坂本龍馬をはじめ長崎に来往する志士等の多くが若宮稲荷神社に参拝したという。
 秋の祭り(10月14・15日)に奉納される行事「竹ん芸(長崎市指定無形文化財)」は有名で、男狐・女狐の面をつけた若者が高さ10m余りの2本の青竹の上で曲芸を行ないます。
 神社の使いである男狐と女狐が若宮神社の御神徳をよろこんで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。

方形の鳥居

若宮稲荷神社

 鳥居の柱が方形で作られた珍しい鳥居、旧長崎奉行所内の稲荷社に文政5年(1822)に長崎奉行土方出雲守が奉納し明治32年(1899)に若宮稲荷神社に移された。

亀山焼窯跡

亀山焼窯跡

 長崎県長崎市伊良林2-15
 亀山焼窯跡について
 亀山焼窯跡は文化4年(1807)大神甚五平外3名がオランダ人に売る水瓶製造の窯を築き陶器を焼いたことに始まり文化11年(1814)白磁染付を焼くことに成功しました。絵付けは南画家木下逸雲など有名文人墨客のものも多く数々の名品を遺しましたが次第に衰徴し慶応元年(1865)廃窯となりました。
 今では幻の亀山焼とも言われ美しい南画風の絵柄ともあいまって愛好家達を魅了しています。
  (伊良林 平自治会掲示板より)

坂本龍馬之像

 1991年から亀山社中跡の庭内に置かれていた「坂本龍馬之像」は若宮稲荷神社境内(伊良林)に移された。
 若宮稲荷神社は社中に近く、龍馬が崇拝していたとされる南北朝時代の武将、楠木正成が祭られており、社中の志士が参詣したという言い伝えがあることなどから移設場所に決まった。
 (坂本龍馬之像は、青銅製で高さ1m、重さ80kg。風頭公園(伊良林3丁目)に立つ龍馬像の原型で約3分の1の大きさ。

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亀山社中記念館アクセス

 所在地:長崎県長崎市伊良林2-7-24
 路面電車:長崎駅前電停~蛍茶屋行き(3番系統)に乗車、公会堂前電停か諏訪神社前で下車、徒歩約20分
 開館時間:午前9時~午後5時 休館日/なし
 入館料:一般 個人/300円 団体/240円 高校生 個人/200円 団体/160円 小・中学生 個人/150円 団体/120円
 (団体は15名以上より)
 駐車場:なし
  亀山社中跡マップ