長崎・眼鏡橋と中島川石橋群(2)

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 長崎の古い面影を残す石橋群 説明文 銘板碑文等参考

編笠橋(あみがさばし)(第四橋)

編笠橋(あみがさばし)(第四橋) 編笠橋欄干(親柱)

 1699年(元禄12)に豪商・岸村氏夫妻の寄付によって架けられましたが、1795年(寛政7)の大洪水で崩壊しました。
 1802年(享和2)に長崎奉行所の費用で再架設された石橋がありましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に昭和の石橋として架設されました。
 名前の由来、今博多町は当時「あめがた町」と呼ばれたことにちなむとされるが、他に、昔この付近には花柳街があり、この橋を渡る人たちは少々恥ずかしいので、編笠で顔を隠し渡ったからともいわれている。

古町橋(ふるまちばし)(第五橋)

古町橋(ふるまちばし)(第五橋) 古町橋欄干(親柱) 古町橋欄干(親柱)

 1697年(元禄10)に貿易商・河村嘉兵衛(河村甚右衛門?)の母で妙了尼(みょうりょうに)の私費によって架けられた。
 1721年(享保6) 洪水で崩流。 1739年(元文4)僧・周傳により再架。1795年(寛政8)破損、1796年(寛政8)の大洪水で崩壊したといわれている。1803年(享和3)に長崎奉行所の費用で架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に石橋として架設されました。橋の名は町名に由来。

一覧橋(いちらんばし)(第六橋)

一覧橋(いちらんばし)(第六橋) 一覧橋欄干(親柱)

 1657年(明暦3)に中国福建省の出身者、高一覧(豪商・唐通事)が、浄財を募って架けたといわれる。
 1721年(享保6)および1795年(寛政7)の大洪水で崩壊したといわれている(諸説あり)。
 1801年(享和元)に長崎奉行所の費用で架設されましたが、1982年(昭和57)の長崎大水害で崩壊し、1986年(昭和61)に初代所縁の中国福州市産の石材(花崗岩)を使用して架設されました。橋の名は高一覧に由来 。
 橋のたもとにある石碑に「明暦三年深見久兵衛募建」とあるが、これは高一覧の日本名。

すすき原橋(すすきはらばし)(第七橋)

すすき原橋(すすきはらばし)(第七橋) すすき原橋旧橋親柱

 1681年(延宝9)に架けられましたが、寄付者は不明です。
 1721年(享保6)および1796年(寛政8)の大洪水で崩壊し、1804年(文化元)に長崎奉行所の官命で再架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に鉄筋コンクリート橋に改められ。現在は交通量が多く車道化されていて、石橋としての風情は失われている。
 橋銘の由来は、当時、中紺屋町と今紺屋町をつなぐ石橋が架かっていたところから中紺屋町橋、今紺屋町橋とも呼ばれていたが、1882年(明治15)になって漢学者・西道仙により「芊(すすき)原橋」と命名された。(芊=すすき・セン)は草が生い茂った様を言う。昔、この付近は草が生い茂っていたことからこの名が付けられ寂びいいところでもあったという。

橋の側に旧橋親柱あり「文化元年甲子八月官命之」の刻がある。

東新橋(ひがししんばし)(第八橋)

東新橋(ひがししんばし)(第八橋) 東新橋旧橋親柱

 1673年(寛文13)に架けられましたが、寄付者は不明です。
 1721年(享保6)および1795年(寛政7)の大洪水で崩壊し、1800年(寛政12)に長崎奉行所の費用で三度架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に昭和の石橋として架設されましたが、水害の危険を考慮して高い橋に生まれ変わり、橋を渡るのに石段を上るのはしんどい石橋となった。橋銘は町名からだが、現在は同名の町はない。
 橋の側らに「寛政七年乙卯七月十九日 洪水舊橋落於是十二年庚申九月再造」の記録と、石工の5名の名前が刻まれた旧橋親柱がある。

魚市橋(うおいちばし)(第九橋)

魚市橋(うおいちばし)(第九橋)

 1699年(元禄12)に岡正恒(大井手橋を架けた岡正敏の弟)の寄付によって今魚町~諏方町に石造アーチ橋が架けられましたが、1721年(享保6)および1795年(寛政7)の大洪水で崩壊。
 1800年(寛政12)に長崎奉行所の費用で再架設されるが、1810年(文化7)の大洪水で再び崩壊。石橋や仮木橋に幾度となく架け替えられ、1903年(明治36)、橋の中央部に旧石橋を転用した台座を設けた鉄橋となり、1925年(大正14)に鉄筋コンクリート橋となる。2006年(平成18)河川改修のため台座が撤去され現在の橋となった。

袋橋(ふくろばし)(第十一橋)

袋橋(ふくろばし)(第十一橋) 袋橋欄干

 長崎市指定有形文化財:昭和46年10月21日指定
 栄町から古川町間に架かっている袋橋は、江戸時代初め(寛永頃)に木廊橋として架橋され、1647年(正保4)の大洪水で木廊橋は崩壊した。 その後、石橋に架け替えられるが、親柱の擬宝珠等の形状などから慶安年間(1648~51年)の築説と、1655年(明暦元)の築とする説がある。
 現存する石橋群の中では、眼鏡橋に次いで古い橋といわれている。
 1795年(寛政7)と1810年(文化7)の水害にも耐え、1982年(昭和57)の水害では半壊するが流失せず、1985年(昭和60)に修復されて、現在でも文化財ではあるが車も通り周辺商業地や住宅地等の主要な生活道路として重要な役割を果たしている。
  袋橋は西道仙によって命名。

常盤橋(ときわばし)(第十二橋)

常盤橋(ときわばし)(第十二橋)

 寛永年間(1624~1644)に、本古川町と本紺屋町の間に木廊橋の古川町橋(本紺屋町橋)が架けられる。
 1679年(延宝7)崇福寺の大壇越であった魏之※(王遍に炎)(ぎしえん)の寄進によって石造りのアーチ石橋に架け替えられた。
 1795年(寛政7)の大水害で流失し、1803年(享和3)公費で再架橋された。これまでは「古川町橋」「第十二橋」と呼ばれていたが、1882年(明治15)に西道仙が「古川橋」と命名。
 1912年(明治45)、本紺屋町、本古川町、西古川町、町民の寄付金で鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、橋名を「常盤橋」に改称。現在のものは2001年(平成13)に再架されたものである。

賑橋(にぎわいばし)(第十三橋)

賑橋(にぎわいばし)(第十三橋)

 賑橋は江戸時代初めに木廊橋として架橋され、「榎津橋」または「第十三橋」と呼ばれた。
 1666年(寛文6)崇福寺の大壇越であった何高材(がこうざい)の寄進によって石橋に架けかえられたが、1795年(寛政7)の大水害で流失、1799年(寛政11)公費で再架橋された。
 1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられ時、付近に魚市場があり賑わっていたことと、榎津町と材木町との間に架かっていて、どちらの町も「木」偏が付いていて、二つの木(き)が合う「にぎあう」ということで賑橋と改称されたと言われている。
 1928年(昭和3)鉄筋コンクリート橋になり、現在の橋は1990年(平成2)に再架されたものである。

万橋・萬橋(よろずばし)(第十四橋)

万橋・萬橋(よろずばし)(第十四橋)

 万橋は江戸時代、第十四橋と呼ばれ、当時、萬屋町に架かっていたので「萬屋町橋」とも呼ばれが、1882年(明治15)に西道仙により「万橋・萬橋」と命名された。
 万橋は1678年(延宝6)京都商人・金屋喜右衛門によって架設された石橋で、同年の大雨で流されそうになり、橋にクサビを打ち込み流失を防いだことから「くさび橋」と呼ばれたこともある。中島川の一番下流の石橋である。

 1797年(寛政8)大水害で流失。1801年(享和元)公費で階段付き石橋が再建された。
 1915年(大正4)鉄筋コンクリート橋になり、1971年(昭和46)、2002年(平成14)再架された。
2003年度グッドデザイン賞(建築・環境デザイン部門受賞)を受賞。

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眼鏡橋アクセス

 所在地:長崎県長崎市魚の町
 路面電車:長崎駅前電停~蛍茶屋行き(3番系統)に乗車、公会堂前電停で下車、徒歩5分
 バス:長崎駅前東口バス停~親和銀行前経由(中央橋方面行き)に乗車、親和銀行前で下車、徒歩5分。
 車:長崎駅前から約5分。
  眼鏡橋マップ