長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)

 爆心地より西約500m(銘板碑文参考)

長崎城山小学校:平和に関する施設・碑

被爆校舎・城山国民学校

旧城山国民学校校舎(城山小学校平和祈念館)
   国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定

嘉代子桜  平和の鐘  荒川平和桜  平和モニュメント  少年平和像  原爆殉難者の碑  永井坂   平和坂  防空壕跡  被爆のカラスザンショウの木  被爆のクスの木(双子クス)

原爆の破壊に耐えた簗橋と城山国民学校(丘の上の建物)

原爆の破壊に耐えた簗橋と城山国民学校(丘の上の建物)

 浦上川に架かる簗橋は、爆心から西へ約280mの位置にあり、この流域では被爆により倒壊した橋が多かった中で、使用に耐えうる橋として奇跡的に残っていた。
 また、当時の簗橋の手前に位置する駒場町は、被爆前はおよそ230世帯の住民が住んでおり、町内の軍事工場や寮に住んでいた人たちも含めると、昼間人口は3,600人程度であったと考えられている。
 昭和20年(1945年)8月9日、その日いつものように出されていた空襲警報もやがて解除になり、子供たちは防空壕を飛び出し、家庭の主婦は早目の昼食の準備に追われる中で市内の人々の働きもあわただしくなり、電車も工場も一斉に動き始めていた。
午前11時2分、突然目もくらむばかりの閃光が伴い、一発の原子爆弾が松山町の高見邸別荘の上空約500mで炸裂した。
 町内は一挙に壊滅し、工場のレンガ造りの建物も倒壊し、全焼した。原爆の爆風を伴った熱線は、建物も人々も飲み込み、灼熱地獄と化したが、火傷を負いながらも即死をまぬがれた人々が水を求めてこの浦上川の川辺に殺到し、やがて折り重なって息絶えた。
 一方、向い側の城山町の中で最も爆心地に近かった市営住宅の被害は甚大で、人々はほとんどが死滅したが、今日では炸裂の瞬間をうかがい知ることは困難である。
 なお、現在の簗橋は長崎大水害後の河川改修工事で新しく架け替えられたものである。
    昭和62年8月 長崎市

旧城山国民学校校舎(被爆校舎 城山小学校平和祈念館)

  旧城山国民学校校舎 国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定

城山国民学校跡・被爆校舎

 原爆中心地にもっとも近い国民学校、爆心地より500M、浦上川のほとりにあります。
 原爆によって、当時偉容を誇っていた白亜の九州初の鉄筋コンクリート3階建て校舎は原爆の強烈な爆風、熱線により破壊焼失した。また、緑豊かな美しい森もすべてなぎ倒されてしまいました。
 被爆当時、学校にいた教職員は31人のうち28人が亡くなり、約1,500人の児童のうち1,400人余りが自宅または自宅周辺で死亡したと推定されています。
 このほか、三菱長崎兵器製作所の一部が事務所として学校を使用していたため、その職員(58人)、女子挺身隊員(10人)、学徒報国隊員(41人)あわせて109名が悲惨な爆死をされました。

防空壕跡

防空壕跡

 第二次世界大戦の終わり頃、アメリカの飛行機が夜も昼も飛んできて、空から爆弾を落とす日が多くなりました。その恐ろしい空襲から命を守るため、空襲の時、避難する防空壕があちこちに掘られました。
 城山小学校には、10箇所の防空壕が掘られ、子供たちや近所の人たちの避難場所となっていました。
 長崎に原爆が落ちた昭和20年(1945)8月9日には、ものすごい爆風でたたき付けられ、熱線で火傷を負ったり、放射線を浴びたりして、多くの子供たちや近所の人たちが亡くなっていきました。二度とこのようなことがないように、 平和への決意と平和を語り継ぐ場所としていきたいと思います。
   (永井坂上り入口付近と崖下の写真)

少年平和像

少年平和像

 昭和26年(1951)8月8日建立。
 この像は父母を原爆で亡くした当時5年生の児童をモデルに、原爆で全てを失った城山小学校の児童が平和を希求して立ち上がる姿を表現している。
 台座の「平和」の文字は当時6年生だった菅原耐子さんの書で、耐子さんは1年生の時に爆心地から約300mの浜口町の自宅裏防空壕で被爆、奇跡的に助かったが出征中の父を除く家族7人を失った。 この書は家族を祀ってある仏壇の前で、冥福を祈りつつ練習して書いたものです。
制作・長崎出身彫刻家富永良雄氏。

嘉代子桜

嘉代子桜

被爆死した娘をしのんで母親(林津恵さん)が寄贈植樹された「嘉代子桜」
 原爆落下当時、学徒報国隊員として城山小学校にきていた長崎県立高等女学校4年生の林嘉代子さんも働いていましたが、校舎3階で勤務中、原爆で被爆死しされました。被爆死した嘉代子さんをしのび、お母さんの林津恵が、花や音楽(ピアノ)が好きだった 娘さんと、多くの被爆死した女学生の慰霊のために桜の木を昭和24年(1949)4月30日に学校へ50本寄贈され植えられました。その後、グランド整備のため伐採、老木、枯死、台風の被害等で今では6本だけが残っています。夏場は運動場にある唯一、日陰を作ってくれ桜の木で、心に安らぎを与えてくれる場所となっています。
 碑石は昭和41年(1966)に建立されました。
 昭和60年(1985)3月、林津恵さんより嘉代子桜の後継ぎの苗木25本が寄贈され運動場スタンドへ植樹されてあります

平和の鐘

平和の鐘

 嘉代子桜を寄贈された林津恵さんが昭和63年(1988)亡くなられた後、遺族の方より故人の遺志を生かしてほしいと寄贈された基金によって平成2年(1990)に平和の鐘が建立された。
 嘉代子桜をモチーフとして製作され上から見ると桜の花びらに見える。 平日の8時・11時2分・17時に鐘の音によって曲を奏でている。

平和モニュメント(三つの願い)

平和モニュメント(三つの願い)

 被爆50周年にあたる平成7年(1995)、平和への誓いを新たにするために建立された。全校児童の発想をデザインに生かして製作され、頭頂部の3つの輪は「大きな希望」「広い心」「深い愛」の 3つの願いを表し、その下の葉は平和を支える人類の手をイメージしており、緑の自然を永久に残そうという願いが込められている。

被爆のカラスザンショウの木

被爆のカラスザンショウの木

 学校のまわりにあった樹木は原爆の強烈な熱線や爆風を受け、ほとんど倒壊、消滅したが、この「カラスザンショウ」は原爆に遭いながらも、かろうじて生き残り幹の全体の樹皮がはがれ落ちかなり痛んでいる姿で「ムクの木」に支えられてその姿を維持して生きてきました。その強い生命力は訪れる人を勇気付けていました。
2016年1月23日~25日、約40年ぶりと言われる非常に強い寒気が流れ込み24日には深積雪となり弱っていた幹に強いダメージを受け、春には新芽を吹き出すことがなく枯死状態と分かり、5月には幹を切断し新たな発芽を促す施術が行われましたが、7月19日に完全に枯死していることが確認されました。現在は保存措置が行なわれ原爆のすさまじさを伝えています。

永井坂

永井坂

永井隆博士の「この子を残して」の印税から基金をいただき、植樹した桜の木があることから名付けられた。
 昭和24年2月に寄贈された桜は、毎年春になるときれいな花のトンネルになり、見事です。この写真の右手に防空壕跡がみえます。

二股クス(双子クス)

被曝のクスの木(双子クス)

 このクスの木は平和坂の入口に立ち、原爆で朽ち果てたかと思われた原木の両側から2本の木が芽吹き、今では豊かな緑をたたえるまでに育っている。児童たちには毎日登下校を見守ってくれるクスの木として親しまれている。

子らのみ魂よ

子らのみ魂よ

長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)

所在地:長崎市城山町一丁目
アクセス:松山電停(バス停)から徒歩約8分
長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)・Google マップ

新刊 絵本・「被爆クスノキの追憶」

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人々に生きる力をくれた大樹の物語
 長崎の山王神社に今も佇む被爆クスノキは、原爆の記憶を物語る生き証人です。
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