山王神社と一本柱鳥居:被爆クスノキ

 爆心地より南南東約800m(銘板碑文参考)

山王神社(さんのうじんじゃ)(由緒・歴史)

 山王神社は、1648年(慶安元)に創建された延命寺の末寺「円福寺」が前身である。1638年(寛永15)の島原の乱鎮圧の後、長崎を訪れた老中松平伊豆守信綱が、浦上街道沿いのこの地を通りかかった際「景色が近江の比叡山のふもとに似ており、また地名も坂本と同じことから、ここに比叡山坂本に置かれている山王権現を観請してはどうか」と、時の長崎代官・末次平蔵茂房に語ったことから、長崎奉行と計り、山王日枝の「山王権現」が此の地に祀られた。 (初め、「白山の岡(現・平和公園)」にあって、そこから現在の坂本に移転したという説がある)
 1652年(承應元) 現在地に移転。 1837年(天保8)門前に鳥居奉納。 1845年(弘化2)拜殿。 1849年(嘉永2)社殿再建。 1868年(明治元)、「山王日吉(ひえ)神社」と改称。 1874年(明治7)縣社。 1869年(明治2)、当時の長崎裁判所の総督、澤宜嘉により設立された浦上皇太神宮が、1883年(明治16)に合祀され、1884年(明治17年正月8日)遷御式を行ない「縣社浦上皇太神宮」と改称。
 地域の人々からは「山王さん」と呼ばれ、親しまれてきた。
 1945年(昭和20)、原爆により社殿は倒壊し、社務所、由来書、宝物等が全焼した。昭和25年正殿再建。
御祭神
 天照大御神 豊受比賣神 大山昨神 大物主人 伊邪那岐神 高皇産霊神 御代御代皇御孫神 外五神

一本柱鳥居(二の鳥居)国登録記念物(遺跡)2013年8月1日指定

山王神社二の鳥居(一本柱鳥居)

 一本柱鳥居(二の鳥居)は爆心地から南南東約800メートルの高台にあり、この鳥居は貴重な原爆遺跡として評価も高く、原爆資料の一つとなっている。
 1924年(大正13)、山王日吉神社の二の鳥居が建立され、のち参道に一の鳥居から四の鳥居までが建てられていた。
 1945年8月9日の原子爆弾で鳥居も破壊されたが、そのなかで二の鳥居は強烈な爆風(秒速約200m)によって爆心地側の半分が吹き飛ばされ、その折に上部に残っていた「カサ石」が風圧でねじれ曲り角度(約13度)がわずかに変わっている。また、原子爆弾の爆風とともに発せられた熱線により、石に含まれている雲母などが膨張し、表面が剥離した。このため、爆心地側の面に刻まれていた奉納者の氏名の一部が剥がれて文字が読めなくなっている。二の鳥居は今なお奇跡的にも一本柱の状態で建ち続けています。 
 なお、高さ、幅回りが一番大きかった一の鳥居は、爆心地と結ぶ平行線上に位置し建っていたので、爆風を避けることができ倒れずに残っていたが、1962年(昭和37)トラックの衝突事故で倒壊し撤去された。当時は被爆遺構に対する関心が低かったため撤去されたといわれる。その後この鳥居がどこにいったのか分からなくなっている。
 三の鳥居と四の鳥居は原爆のよって倒壊。うち三の鳥居の柱の一つは「坂本町民原子爆弾殉難之碑」となっている。

ねじれた「カサ石」

観察
● 一本柱で建っている反対の(倒れた方)台石の上に立ってみると、残っている一本柱鳥居上部の「笠石」が爆風でねじれている(約13°)状態がよくわかります。

熱線をあび溶けた鳥居

観察
● 一本柱鳥居を良く見ると、爆心地側は、熱線をあびて石に含まれている雲母(うんも)などが膨張し、表面が剥離。それに爆風で飛んできた石や瓦等があたりこのため、爆心地側の面に刻まれていた奉納者の氏名の一部が剥がれて文字が読めなくなっている。
二の鳥居は、花崗岩でできている。

山王神社の被爆クスノキ

山王神社・被爆クスノキ

1969年(昭和44)長崎市指定天然記念物
1996年(平成8)環境省(残したい日本の音風景100選)認定 音源:樹風
地域の人々と共に生きる木と風のささやき、境内を通る風で起こる葉音は、1996年7月に環境省の“残したい「日本の音風景百選」”に選ばれた。
山王神社の境内入口にそびえるこの二本の楠木は、樹齢約500年、胸高幹囲がそれぞれ8.63メートルと6.58メートルで、 市内にある楠木では巨樹の一つです。ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は21メートルと17.6メートルであるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、大樹冠を形成している。

被爆当時の大楠

被爆した山王神社の被爆クスノキ

原爆の熱線で爆心地側の幹は焼け、爆風では枝葉も落ち、枯れ木同然となり、蘇生を危ぶられていたが、1945年(昭和20)10月初め頃、爆心地と反対側にあたる樹木の裏側から新芽が吹きだし、次第に樹勢を盛りかえし枝葉を茂らしてきた。このことは戦後の復興に希望を与え地域の人々に励ましとなった。今は緑の木の葉のざわめきの中に、 この山王地区を何百年もの間見守ってくれた大楠のやさしさと平和の音が聞こえてくる。
写真(林 重男氏撮影)

石の由来について

石の由来について

この石の由来について
この石は、平成18年(2006年)山王神社・被爆楠の木の2度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたのです。
 治療にあたった樹木医・海老沼氏によると、昭和20年8月9日(1945年)に投下された原子爆弾の爆風により、入ったものと考えられる。(爆風:秒速220メートル、熱線2000度〈推定〉)
 その証として無数の石が、右側の木の中から発見されている。この木の3メートルの上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって、爆風により石が舞い上がり、穴の中に止まっている。
 常識では考えられないような大きな力が加わり、原子爆弾の威力を物語っている。
 神社に向って左側の楠の木は爆心地に近く、主幹は途中で折れている。その上、木の幹(内部)には無数の破片(瓦・金属・小石等)が突き差さっていた為、治療の時、その破片を取り除くのには困難を極めた。
  山王神社氏子総代会 事務局長 森田博満(文責)

浦上街道の碑

山王神社・浦上街道の碑

浦上という地名は深江浦(長崎港の古名)の奥の上手にあるところから名づけられた。浦上を縦断して西坂と時津を結んだのが「浦上街道」で、距離約12km。
 この街道を「キリシタン街道」と呼ぶことがあるのは、京都から長崎へ処刑のため1597年2月5日に時津の港から西坂へ連行されてきた日本26聖人の殉難の道だからである。 江戸上方と長崎間の長崎街道のいわば裏街道にあたる。

被爆の観音・地蔵さま

被爆の観音・地蔵様

長崎四国第八十三番霊場の内に聖観音菩薩像、両脇に地蔵菩薩像二体が安置されております。この霊場は、長崎西坂、山王、浦上を通り時津宿に至り、船で彼杵宿に渡る浦上街道にあり、江戸期より人々の崇拝を受けておられました。
 1945年8月9日の原子爆弾落下後の瓦礫の中に、まるで犠牲者の冥福を祈るかのようにうなだれ、たたずむ姿の聖観音菩薩様がおられました。今も同じ場所で、道行く人々を見守っておられます。

山王神社・一本柱鳥居・被爆クスノキ

所在地:長崎市坂本2丁目6-56
アクセス:長崎大学病院前電停から徒歩約5分
山王神社・一本柱鳥居・被爆クスノキ(Google マップ)

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人々に生きる力をくれた大樹の物語
 長崎の山王神社に今も佇む被爆クスノキは、原爆の記憶を物語る生き証人です。
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