如己堂(にょこどう)・長崎市永井隆記念館 |
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| (写真撮影2005・3/8〜3/31・文 銘板碑文参考) | |
如己堂・長崎市永井隆記念館 |
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如己堂(にょこどう) 〜如己愛人の精神〜![]() 長崎市名誉市民永井隆博士が生前二人の子供と共に住み、自らの病室兼書斎として生活していた。 |
「如己堂」永井隆博士が過ごされた家「如己堂」の名は、博士が生きる指針とした、「聖書」の一節、「己の如く人を愛せよ(如己愛人)」という言葉から如己堂と付けられている。(新約聖書マルコによる福音書12章31節)「なんじの近き者を己の如く愛すべし」 人はともすれば、わが欲に心を奪われ、この最も大きな掟を忘れがちなものである。それゆえ、 私はこの私らの住む家に「如己堂」と名をつけた。 【いとし子よ】より |
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1945年8月9日長崎市に投下された原子爆弾で博士は市民とともに被爆にあい、妻までも失った。妻を失った悲しみのなか、
以前より患っていた白血病と闘いながら被爆者への救護活動を続けられていたが、ついに昭和21年7月に倒れ、寝たきりとなってしまった。しかし、幼な児2人と昭和23年から3年間この「如己堂」で、死の直前まで原子病に関する医学的な研究と発表を続け、多くの著書を残された。
永井隆博士が記した著書のテーマは原爆、人間、愛、平和……いずれも博士自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ作品ばかりで、なかでも『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』『原子雲の下に生きて』著書は名高い。 1951年(昭和26)5月1日43歳で永眠され、坂本国際墓地に眠られている。 博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっています。 ※写真は、爆死した妻のために半年間喪に服す永井隆博士(昭和21年1月) |
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原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)A rosary has melted in intense heat ray of an atomic bomb.(The red parts is coral) 永井隆博士婦人の緑さんが使用していたロザリオです。緑さんは爆心地より北北東約620mの上野町の自宅で被爆死しました。 博士が3日後に自宅に帰りついた時には、自宅の焼跡には妻のロザリオと遺骨だけが残されていただけです。 |
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長崎市永井隆記念館隣接する「長崎市永井隆記念館」は博士の崇高な精神と偉業を永く記念するために建てられた。博士の遺品、書画などのほか関係写真等が展示されている。記念館は、被爆前の自宅跡地で、戦後、原爆で傷ついた子供たちの心を少しでも豊かにしようと、永井隆博士が私財を投じ造った図書館「うちらの本箱」ができたのが始まりで、その後、昭和27年12月25日長崎市永井図書館が開設され、昭和44年4月1日長崎市立永井記念館に改称、 平成12年4月5日に長崎市永井隆記念館と改称、全面改築して新たに開館。 現在も2階には博士が生前、子供たちに開放していた図書館「うちらの本箱」の精神を受け継いだ図書館がある。 |
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「帳方屋敷跡」碑「帳方屋敷」について1614年(慶長18)、徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外追放、教会はすべて破壊されてしまった。 当時、長崎地方には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗をせず、以後250年間潜伏した。この間、教義を伝えるための組織がつくられた。指導者の頭を「帳方」と呼び、四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには、各字に「聞役(指令伝達役)」を一人ずつ配置した。 この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続いた。ここはその屋敷跡である。 永井隆博士の妻、緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。 |
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万人塚(まんにんづか)永井隆博士は、原爆で亡くなった人々の霊を慰め、彼等の想いを永久に忘れないように自宅の敷地内に万人塚を建立されました。現在、浦上天主堂の入口にこの万人塚は移設され、イタリア・カトリック医師会より贈られた平和の聖母像がこの台座に置かれてある。 |
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永井千本桜永井隆博士は、原子野を「花咲く丘」にしようと、昭和23年、九州タイムズ社から贈られた5万円をもとに、桜の3年苗木1,200本を山里小学校、純心女子学園、浦上天主堂、病院、道路などに植えた。この桜の木のほとんどは代替わりしてしまったが、 今も「永井千本桜」と呼ばれ、春になると花を咲かせ浦上の丘を彩っている。写真は山里小学校、永井坂の桜です。 |
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御衣黄(ぎょいこう)桜故永井隆博士の出身地、島根県雲南市三刀屋町より長崎市永井隆記念館の新築開館(平成12年4月)を記念し贈られた御衣黄桜です。御衣黄桜は、ソメイヨシノの開花からおよそ2週間遅れで咲き始める、八重桜の一種で、薄い黄緑色の花が咲く、珍しい桜の木です。 蕾は少しピンク色をしていますが、蕾が開きだすと薄い黄緑色をした花を咲かせます。開花が進むにつれ、花弁の中心にピンク色の縦線がはっきりと現れる。散る頃は花はピンク色に変わるなど、色々と変化をする桜の樹です。名前は高貴な方が着る衣に例えて付けられとも云われている。 (2008.4.8撮影) |
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| 自筆書「平和を」 博士の願い、永遠に平和を 「平和を」という書を数多く書き 世界中に平和を訴えた |
自筆書「どん底に大地あり」 どん底の生活からこそ幸福は生み出され、 育て上げられていくのだという思いから したためられたもの |
永井隆博士の辞世の歌 白ばらの花より香り立つごとく この身を離れ 昇りゆくらむ |
永井隆著書/関連図書の紹介永井隆−平和を祈り愛に生きた医師−待望の児童向け伝記。「長崎の鐘」や「この子を残して」などの著作を通じて、多くの人に感動と生きる勇気を与えた永井隆の生涯を、わかりやすく紹介してあります。 長崎の鐘 「第11医療隊原子爆弾救護報告書」をもとに書かれている。世界で2発目の原子爆弾被爆災害の現場の悪夢のような状況、逃げまどう人々の中で、健気にも立ち上がった医療隊員の救護活動、そして復興への道、原子力時代の幕開けを信じながら、原子力の管理の必要性を説く。原爆は長崎でピリオド! 平和を!と叫ぶ。 この子を残して 寂しくても、つらくても、やがて二人の幼子は強く生きていかねばならぬ… 重症の床に臥す薄命の父が、残したのは「如己愛人」の一言だった。そして言う「一生かかっても完成できないような大きな目標を持ちなさい」さらに「最後の一人になっても戦争に反対しなさい」と書き残した。 ロザリオの鎖 焼けただれたロザリオを残して原爆に犠牲となった妻を偲びながら、残された二人の幼子との再建の生活を描く原子野の記録。 如己堂随筆 原爆で無一物になった浦上の人々は、博士のために六尺四方の小さい家をたててくれた。喜んだ博士は、その家を「如己堂」と名付けた。如己堂で出会った人々との心の触れ合い、共に喜び、共に悲しむ。折に触れての追想、世相への批判などを交えて、祈りながら書き上げた随筆集。 平和塔 「問題は、その廃墟での行き方である」愛と勇気をもって非武装を唱え非戦を叫ぼう。平和を願う者は針一本だけに持ってはならない。 乙女峠 (1952年) 永井隆が死の直前に書き上げた最後の著書。長崎キリシタン流配の地、津和野での浦上の信者の信仰心に裏付けされた言動を、力強く描写している。 私たちは長崎にいた 生涯消えることのない苦しみを背負い、原子野に生き残った人々と共に、自らも被爆し、且つ、白血病のために余命僅かの博士が綴る“平和”への叫びを聞こう。 原子雲の下に生きて―長崎の子供らの手記 昭和20年8月9日、山里国民学校は原爆により壊滅した。校区内でわずか生き残った子供たちが綴った原爆体験集。被爆の惨状を体験した子には深い「心のキズ」が残った。然し、彼等は明るく、逞しく立ち上がったのである。 娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り 原爆で重症をおいながら、献身的な愛で救護活動を続けた父・隆の姿を純心な目でみつめていた少女、茅乃。母となった今、平和の尊さを娘に語り伝える。 永井隆の生涯 数々の名著を世に出し、重い病気やどん底の逆境にあっても恒久平和と隣人愛の精神を唱えた永井隆の生涯を記した本。写真や自筆画を添えて多数掲載されている。 |
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「永井隆博士から“天国からの伝言”」戦争はおろかなことだ!戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである。 平和を祈る者は、一本の針をも隠し持っていてはならぬ。 お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから 敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。 己の如く隣人を愛すという、その愛には必ず大きな犠牲と、熱い祈りとが秘められている。 (「いとし子よ」より) 原爆は長崎でおしまい!長崎がピリオド!平和は長崎から! (「平和塔」より) |
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