平和公園・祈りのゾーン(原爆落下中心地地区)

 原爆落下中心地地区は、「祈りのゾーン」として聖域化を図り、被爆の史実を伝え、被爆により亡くなられた方々のご冥福を祈る空間として整備されています。   (文 銘板碑文参考)

原爆落下中心地付近(祈りのゾーン周辺の碑)

祈りのゾーンの碑(モニュメント)マップ

①.追悼 電鉄原爆殉難者
②.外国人戦争犠牲者追悼 核廃絶人類不戦
③.福田須磨子詩碑 ④.不戦平和之塔
⑤.電気通信労働者原爆慰霊碑 ⑥.平和を祈る子の像
⑦.追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者 ⑧.桜の記念碑 
⑨.長崎誓いの火 ⑩.秦 美穂先生歌碑 ⑪.小山誉美先生歌碑 
⑫.長崎之原爆 詩碑 ⑬.原爆句碑  ⑭.平和 ⑮.平和の母子像
⑯.反核・平和「はぐくむ」 ⑰.あの夏の日
⑱.平和の願いを後世へ ⑲.PEOPLE AT PEACE ⑳.隈治人句碑
21.原爆句碑(松尾あつゆき)
22.浜口町北部の惨状
23.秋桜子句碑

① 追悼 電鉄原爆殉難者

追悼 電鉄原爆殉難者

 太平洋戦争末期 戦火は益々厳しく造船兵器工場のある長崎の街は戦時体制の中で 大量に動員された通勤者や一般市民の輸送は最大の急務で特に朝夕のラッシュ時の混雑は想像に絶するものでした。
 この輸送に当たった市内電車の運転士 車掌は交通戦士の名のもとに 男子女子挺身隊学徒動員の10才代~20才代初めの人たちでした
 原子爆弾のさく裂により この人達は電車のハンドルを握ったまま 車掌カバンを抱いたまま 中には いまだ12才の少女車掌を含め110余人の若い命が 多くの乗客と共に悲惨にもその犠牲になったのであります
 追悼碑使用資材 外枠地引並に台座 被爆した旧下の川停留場ホーム縁石
 碑石 殉難者が多かった五島の安山岩自然石 前面に戦時中の使用電車のスポーク付車輪 折り鶴掛及び登り段両側に電車線レール 台座廻り及び前面地上に電車線路敷石
 設置年月日 昭和62年4月 設置者 電鉄8月9日の会

② 外国人戦争犠牲者追悼 核廃絶人類不戦

外国人戦争犠牲者追悼 核廃絶人類不戦

 1931年9月18日の柳条溝事件事件を契機とする日中戦争 1941年12月8日 の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争など この15年にわたる戦争によって310万人の日本人 数千万のアジアと世界の民衆の尊い生命が奪われた
 この戦争の末期 長崎では数次にわたる米軍の空襲 潜水艦攻撃 そして8月9日の原爆 によって7万余の日本人 数千の朝鮮人 中国人労働者 華僑 留学生 連合軍捕虜(イギリス・アメリカ・オーストラリア・オランダ・インドネシア等)が犠牲となった  特に浦上刑務所のあった隣接する丘では 32名の中国人 13名の朝鮮人が日本人受刑者とともに爆死し また香焼や幸町の捕虜収容所では 被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した
 私たちは長崎で亡くなった これらすべての外国人戦争犠牲者 遠くアウシュヴィッツ強制収容所で殉難したコルベ神父らを追悼し 再びこのような惨劇をくり返さぬよう 核兵器廃絶 人類不戦の誓いをこめて 内外から広く浄財を募り ここにこの碑を建立する
 1981年12月8日 太平洋戦争開始40周年の日に
 外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会

③ 福田須磨子詩碑

福田須磨子詩碑

 生命を愛しむ
新しき年の始めに しみじみとわが生命愛しむ 原爆の傷痕胸にみちしまま 絶望と貧苦の中で たえだえに十年  げにも生きて来しかな 悲しみと苦悩の十字架をおい ほそぼそと生命かたむけ 生きて来しこの現実を  奇蹟の思いでかえりみる “吾尚生きてあり” ここに座し 一切を観ず ふきちぎれた魂は 未定の生を夢み 一片の我が生命を愛しむ
 福田須磨子詩集  原子野より

 福田須磨子 大正11年3月23日 長崎市浜口町43番地に生まれる。昭和20年8月9日、長崎男子師範学校会計課に勤務中被爆。昭和30年被爆後遺による紅斑症発病。以来入退院をくり返す。
 被爆への怨念と平和の希求、闘いの生涯をこめた「われなお生きてあり」を完成。第八回田村俊子賞を受賞。怨の女か、愛の女か、須磨子は或るいは、火の玉となり或るいは阿修羅となり、戦争への危機と核権力に対して抵抗しつづけた。
 昭和49年4月2日死去 52歳 秋月 辰一郎  撰文

④ 不戦平和之塔

不戦平和之塔

原爆殉難者慰霊
  原爆受難者慰霊塔の建立にあたって
 昭和20年8月9日11時2分 長崎は摂氏3,000度を超える熱線 秒速500mの爆風 炎うずまく地獄の中に 人も家も焼きつくされました
 あの日 多くの建設労働者職人は 徴用で狩り出され 街の強制疎開の建物撤去作業や魚雷艇づくりなどに強制就労させられるなかで 尊い生命を奪われました
 あの苦しみ あの怒り あの悲しみを私達は 決して忘れることはできません そして 世界のいかなる国のいかなる人類の上にも二度と繰り返させてはなりません
 被爆43年 今ここに全国の建設労働者職人の総意により 原爆殉教者を慰霊し 平和と核廃絶のため闘う証として 不戦平和の塔を建立いたしました 御魂よ 安らかにお眠りください
 昭和63年8月8日
 全国建設労働組合総連合・長崎県建設産業労働組合

⑤ 電気通信労働者原爆慰霊碑

電気通信労働者原爆慰霊碑

いのちのかぎり 消えぬ 被爆の憎しみを いかに伝えむ 澄みしこの瞳に
 この慰霊碑は 1945年8月9日の原爆投下により尊い生命を奪われた電気通信労働者の慰霊をなぐさめ 二度と過ちを繰返さない決意を明らかにするため 被爆30年にあたる1975年 全国の電気通信産業で働く人々の浄財によって建立されました  台座は三つの面が組み合わされています
 その一面は 原爆被爆者を表し その一面は 電気通信労働者を表し その一面は 核廃絶 恒久平和を誓う市民(国民)を表しています ブロンズは「平和の炎」を造型したものです
 「原爆被爆者」と「現在そして未来をも電気通信業務に働く労働者」と「原爆許すまじ 核廃絶 世界の恒久平和を達成するために手をとりあう すべての市民」が がっちりとスクラムを組み ドッシリと重い「平和の炎」をかつぎ 高くかかげてその日まで歩み続けよう との誓いをこめた姿を象徴したものです
 被曝後50年 1995年8月9日 全国電気通信労働組合
 碑文は、長崎電話局に勤務中、原爆の炸裂を体験した婦人が読んだ歌を採用したものである

⑥ 平和を祈る子(像)

平和を祈る子の像

 原子雲の下で母さんにすがってないたナガサキの子供の悲しみを二度と くりかえさないように 大砲の音が二度となりひびかないように 世界の子供のうえに いつも明るく太陽が輝いていますように
 長崎平和の折鶴会 昭和42年8月9日
 設 立 長崎平和折鶴会
 像作者 中田 秀和
 被爆20周年を記念し長崎平和の折鶴会が国内外で募金し建立台座の周辺には世界各国や国内各都道府県から贈られた石が嵌めこまれている。

⑦ 追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者

追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者

長崎原爆朝鮮人犠牲者 強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死した朝鮮人とその家族のために  1979・8・9
 1910(明治43)年8月22日 日本政府は「日韓併合条約」を公布し 朝鮮を完全に日本の植民地支配下に置いたため 自由も人権も さらに貴重な土地も奪われ 生活の手段を失った朝鮮人たちは日本に流入した
 その後 日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は 1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦当時は 実に2,365,263人 長崎県全体に在住していた朝鮮人は約7万人という多数に上がった(内務省警保局発表)
 そして長崎市周辺には約3万数千人が在住し 三菱系列の造船所 製鋼所 電機 兵器工場などの事業所や周辺地区の道路 防空壕 埋立て等の作業に強制労働させられ 1945年(昭和20)8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で 約2万人が被爆し 約一万人が爆死した 私たち 名もなき日本人がささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた1万余りの朝鮮人のために この追悼碑を建設した かって日本が朝鮮を武力で威かくし 植民化し その民俗を強制連行し 虐待酷使し 強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を 彼らにおわびすると共に 核兵器の廃絶と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない
 1979年8月9日 長崎在日朝鮮人の人権を守る会

⑧ 桜の記念碑

桜の記念碑

被爆地 長崎と共に 生きた 桜 明日に 幸あれ
 当時 草木も生えぬと伝えられた爆心地、復興を見守り今日まで私たちに安らぎを与えてくれた桜を通じ私たちは被爆者の慰霊、平和への願を込めこの地に碑を建立するものである
 敦子毛筆同好会
 代表 前田 敦子
 有志一同

⑨ 長崎誓いの火

長崎誓いの火

長崎を最後の被爆地とする誓いの火
 古代オリンピックの故事によれば、4年に一度のオリンピックが開かれ聖火が灯されている期間は、全ての戦いが中止されたといいます。このことから、聖火は「平和の象徴」とされてきました。
 1983年8月、ギリシャ政府の特別の許可により、人類最後の被爆地長崎へ送るための聖火が、オリンピアの丘で採火されました。オリンピック以外の目的で、聖火がギリシャ国外へ持ち出されることはきわめて例外的なことです。
 聖火は、ギリシャ文化科学省の特使たる名高い女優、アスパシア・パパタナシュによって長崎へ運ばれ、平和公園へ集まった2000人の人々の見つめる中、本島等長崎市長へと手渡されました。平和の象徴であるこの火は大切に保存され、 まもなくこの火を灯し続けようという市民の手により「灯火台建設運動」が開始されました。
 日本の各地から、そして海外から、さまざまの団体から、個人から、平和の願いをこめた寄付金が建設委員会へ寄せられ、1987年、灯火台は完成しました。
 この火は、「世界中から全ての核兵器が廃絶されるまで」灯し続けられます。平和の象徴としてこの火が灯されている限り、日本と世界のどこにも決して核戦争を起こさせないーすなわち長崎が世界で最後の被爆地であり続けるという誓いが、この火にはこめられているのです。
 1988年8月6日
 長崎を最後の被爆地とする誓いの火灯火台建設委員会
 デザイン 井川惺亮

⑩ 泰 美穂先生歌碑

泰 美穂先生歌碑

朝の日を さへぎらふ無き 丘のうへ 焼け立ちて白し 大樹五六本
 昭和二十年原爆年初冬浦上詠 美穂
 長崎市民泰 美穂氏の永年にわたる文学の功績を顕彰するため、歌碑建設発起人、やまなみ短歌会 有志により計画をすすめ建立の運びとなった。
 昭和56年辛酉7月26日建之
 歌碑建設発起人代表 坂田重保 他3名
 やまなみ短歌会 前田 博 他4名

⑪ 小山誉美先生歌碑

小山誉美先生歌碑

誰かここに かがみゐたらむ 熱線にその身は 焼けて影ひける石 
 小山誉美先生は53年間 歌誌「短歌長崎」を主宰発行して地方文化の興隆に尽力され短歌を通して核廃絶と平和を訴え続けられた
 平成5年4月
 歌の実短歌会

⑫ 長崎之原爆 詩碑

長崎之原爆 詩碑

原爆炸裂天地轟く 崎陽満目猛烟生ず
 大厦髙楼瞬時に砕け 山崩れ海翻り鉄塔傾く
 須臾にして焔々大火起こり 焦頭爛躯累々として横たわる
 夫は妻を喚び妻は子を覓む 阿鼻叫喚修羅の声
 八万の生霊恨みを呑んで死す 噫原爆の大犠牲
 文化の悪用人類を滅ぼす 平和の鐘何の時にか鳴らん

 作者は著名な現代漢詩作詩家として知られ 医学を以って社会に貢献されるかたわら 漢詩作の研究を究められ昭和33年来崎の際 原爆の悲惨な情景を見聞されて 原爆犠牲者の御冥福と世界永遠の平和を祈念して作詩された
 其の詩魂は広く吟道愛好家に受け継がれ 毎年8月9日平和公園に於ける原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の際献吟されて居ります
 此の詩碑は先生自筆の詩を刻み原詩は長崎市に寄贈されて居ります
 平成四年九月二十七日
 ライオンズクラブ国際協会 京都北・長崎北クラブ

⑬ 原爆句碑

原爆句碑

 なにもかもなくした手に四枚の爆死証明 松尾あつゆき
 凍焦土種火のごとく家灯る 下村ひろし
 原爆忌の氷塊となり挽き切らる 久保田 翠
 厚葉夜は垂れて爆土のアマリリス 島田 輝子
 蝉籠に蝉の眼のあり原爆忌 柳原天風子
 雲暑しわが籍ける草死者の花 田原 千暉
 原爆の日のはったい(麦扁に少)にむせびけり 山口半染草
 武器つくるけむりが原爆忌の夜雲 隈 治人
 弯曲し火傷し爆心地のマラソン 金子 兜太
 原爆忌戸口をおそう海の太陽 芝生 南天
 枯れる向日葵被爆の僕に種こぼす 井川 清澄
 夕焼雀砂あび砂に死の記憶 穴井 太
 昭和36年8月建之 長崎俳句協会

⑭ 平和(碑)

平和

 世界最初の原爆を体験した長崎と広島の青年たちは 昭和25年5月5日長崎市において 原爆都市青年交歓会を開催し両市の青年が団結して 世界恒久平和の実現と郷土復興の推力になろうと 誓い合い 私達は国際文化都市建設のために長崎市民とともに立ちあがった
 被爆40周年にあたり この貴重な事業を多くの人びとにつたえ さらに平和運動の輪が広がることを祈ってここに平和の碑を建立する。
 昭和60年8月9日
 長崎青団会
 「平和」の文字は平和祈念像の制作者 北村西望氏が102歳の時の書

⑮ 平和の母子像

平和の母子像

 男たちが戦場に向かったとき 女たちもまた勝利を祈った。 しかし 広大な大陸や はるかな海の島々では 数知れない人々の血が流されていった。 そして遂に1945年 沖縄での惨劇についで 8月6日広島 9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
 ああ あの閃光の下で数万もの男女 無数の母と子が灼かれ ひき裂かれ息絶えた。 あれから40余年 いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し 地球は破壊の渕にある。 戦争も核兵器も許してはならない。 命ある全てのものが生きる この緑の大地を 地球を守ろう。  それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの たぎる思いをひとつにあわせ 再び あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて ここにこの像を建てる。
 一九八七年八月一日
 長崎平和の母子像を建てる会

⑯ 反核・平和 ーはぐくむー

反核・平和 はぐくむ

 反核・平和 ーはぐくむー
 長崎県労評センター女性協議長
 田中 寛治作

⑰ ー鎮魂ー あの夏の日

あの夏の日

 あの夏の日
 施行主 退職婦人教職員長崎県連絡協議会
 主 旨 戦争50周年記念
 竣 工 1997年3月 作者 井上 幸雄

⑱ 被爆50周年記念 平和の願いを後世へ

平和の願いを後世へ

 (碑 文)
戦争は国を亡ぼす 核兵器は地球をなくす 世界を担う若者よ 未来へ平和をつないでほしい
 1945年8月9日午前11時2分、長崎松山町の上空に投下されたアメリカの原子爆弾によって、7万有余の尊い生命が奪われました。かろうじて生き残った被爆者たちの中には、自分で肉親を火葬したり、 住む家もなく遠い親類にあずかってもらい、肩身のせまい生活を強いられた人も少なくありませんでした。また、自分の親の遺体さえ見つからないまま50年目を迎えた人もいます。
 当時、少年・少女だった私たちは、青春を奪われ、結婚も許されず、病気や火傷などで苦しんでも医療も受けるすべもなく、国は12年間も被爆者を放置し続けたのでした。1955年、社会の片隅で ひっそりと暮らしていた私たちは、この苦しみを世間に訴えようと、長崎で初めての被爆者組織「長崎原爆乙女の会」を、発足させ、続いて「長崎原爆青年の会」を結成し、やがて「長崎原爆青年乙女の会」 へと発展しました。それから40年私たちは被爆の体験をとおして「ふたたび被爆者をつくるな」を合言葉に、核兵器をなくせ、原爆被害への国家補償を、と全国の被爆者と共に運動をすすめてきました。
 ここに私たちは、被爆50周年そして会結成40年を機に、同胞のみ霊の鎮魂と私たちの想いと未来への願いをカプセルに込めてこの碑に収め、恒久の平和を世界の人々へ訴えるものです。
 1996年(平成8年)12月23日
 長崎原爆青年乙女の会 被爆50周年記念碑建立委員会

⑲ PEOPLE AT PEACE

PEOPLE AT PEACE

 被爆の体験をもつ姉妹都市のクラブであり共通した平和文化の地域にある長崎西ライオンズクラブと広島西ライオンズクラブは、このたび姉妹締結をしました。
 この締結を記念するとともに全人類の恒久平和のシンボルとして役立つことを希い、ここにこ の碑を建立する。
 1984年2月11日 ライオンズクラブ国際協会
 337―C地区 長崎西ライオンズクラブ
 336―C地区 広島西ライオンズクラブ

⑳ 隈治人句碑

隈治人句碑

雲が首灼く浦上 花を もっと蒔こう 治人
 隈 治人先生略歴
 一九一五年十二月八日 長崎市に生まれる
 一九三六年 長崎医科大学附属薬学専門部卒業
 一九五九年~九十年 長崎新聞 俳壇選者
 一九六五年 第十二回 現代俳句協会賞受賞
 一九七一年 「土曜」を創刊主宰
 一九九〇年 長崎新聞文化章授章
 一九九〇年十一月二十三日 逝去 七十四才
 隈治人先生を敬愛してやまぬ
 「土曜会」会員之を建立する
 一九九二年十二月六日

21 松尾あつゆき句碑

松尾あつゆき句碑 松尾あつゆき句碑

 松尾あつゆき著 "原爆句抄"より
すべなし 地に置けば子にむらがる蝿
 かぜ、子らに火をつけてたばこ一本
 朝霧 きょうだいよりそうたなりの骨で
 まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる
 炎天、妻に火をつけて水のむ
 なにもかもなくした手に四まいの爆死證明
 涙かくさなくてもよい暗さにして泣く

 1989・10・10
降伏の みことのり 妻をやく火 いまぞ熾りつ
あつゆき句

22 浜口町北部の惨状(現在の平野町)

浜口町北部の惨状(現在の平野町)

 浜口町北部の惨状(現在の平野町)
 眼下の松山町とともにもっとも爆心地に近かったここ浜口町の北部(現平野町)一帯は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。1945年(昭和20年)8月9日も、暑い夏の陽射しを受けて、キョウチクトウの赤い花が揺れ、クマゼミの声がこだましていた。 朝早く出されていた空襲警報も解除になり、家を飛び出した子供たちは喜んで近くの森でセミ取りに熱中していた。
 同日午前11時2分。この町の500メートル上空で一発の原子爆弾が炸裂し、強烈な熱線と放射線と爆風 がふりそそいだ。
 原子爆弾炸裂後にできた火球の中心温度は摂氏数百万度に達するという、自然界では考えられない人間を抹殺する核兵器の人類史上2番目の使用であった。
 何の罪もない子供たちは母親を捜し求める声もなく息絶え、地上の建物は火の海に包まれ、あらゆる生命は灰となって散った。 数時間後に到着した救援隊の接近を拒むほど地上は焦熱地獄と化していた。
 この碑銘板の原画は、この丘のすぐ近くにあった清田家で、たった一人生き残った清田寿美子さんの話しにもとづき島田鶴彦氏が描いたもので、当時の惨状は次のようであった。「父母の死体も炭のように真黒くこげて、 さわると肉の部分はまるで綿の燃えかすのようにバラバラとくずれてしまった・・・・」。
 あらためてここに被爆死された方々のご冥福を祈るとともに、これらの悲惨な記憶をとどめおくために、この地に碑を設置するものである。
 昭和61年8月  長崎市 (長崎国際文化会館)
 原爆記
 昭和二十年八月九日午前十一時二分、アメリカの原子爆弾が長崎におとされた。清田家は浜口町にあったが、その上空五百米でさく裂した。  父母妹三人は、殆ど瞬間的に爆死したようで、いずれも炭のように焦げてしまつていた。
 父は台所にうつぶせに倒れ母は部屋の方で座ったままの姿勢で、妹は防空壕の中で横向きに死んでいた。
 場所 長崎市浜口北部一八四
 父 清田藤祐 享年六十六才
 母 清田トネ 享年六十二才
 妹 清田美智子 享年十三才
 昭和五十年八月九日
 寿美子記す

23 秋桜子句碑

秋桜子句碑

薔薇の坂にきくは浦上の 鐘ならすや 秋桜子
 昭和51年5月吉日 建立
 長崎馬酔木会宗梠

長崎原爆中心地(原爆落下中心地)公園マップ

所在地:長崎市松山町
アクセス:松山電停(バス停)から徒歩2分
爆心地公園付近(Google マップ)

新刊 絵本・「被爆クスノキの追憶」

絵本:被爆クスノキの追憶

人々に生きる力をくれた大樹の物語
 長崎の山王神社に今も佇む被爆クスノキは、原爆の記憶を物語る生き証人です。
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