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長崎・出島(出島オランダ商館跡)(歴史の街長崎観光ぶらり散策)

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長崎・出島(長崎出島オランダ商館跡)

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(写真撮影2005・10/1〜2006・11/1・説明文 銘板碑文等参考)

出島(長崎出島オランダ商館跡)

出島全体は大正11年(1922)10月、「出島和蘭商館跡」として国指定史跡となる。この出島を通じて、日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化・学術の交流が行われ、日本の近代文化に大きな役割を果たした。

出島の由来

史跡出島和蘭商館跡碑
1570年長崎開港、1571年8月にはポルトガル船2隻が初めて入港以来、渡来するポルトガル人は年々多くなり貿易も盛んになたが、貿易に関する制度や施設が不十分で、取引が終わるまで、ポルトガル人は市内の住民と同居すろようになったことで、いろんな不都合な問題が生じてきた。 キリスト教問題、混血児問題、金銭支払の問題である。 そのため幕府は1634年長崎奉行に命じ、ポルトガル人との同居を禁止する方針を実施させ。日本人と外国人を隔絶する方策をとる。奉行の許可を得た町人25名の出資によって江戸町海面を埋め立て扇形の出島を築いた。建造費銀200貫目(約4,000両)これを今のお金に換算すると約4億円。
※1 総面積は約15,000u(3,969坪余)(史跡指定面積 約14,800u)。
1637年に起こった島原の乱により、幕府はポルトガル人に対して警戒を強め、1639年、ポルトガル人の来航が禁止されて出島は空き家となるが、1641年平戸のオランダ商館が出島に移され、1859年までオランダ人が218年間入居。
出島を築いた町人たちはポルトガルやオランダ商館に出島を貸し、築造費にあてようと考え、ポルトガルで年間銀約80貫目、オランダで銀55貫目の家賃を取り、収入は25人で配分した。今のお金で約1億円という金額。
慶応2年(1866)に出島が外国人居留地に編入されると、急激にその姿を変えていきました。
明治16年(1883)に入り、出島周辺の埋め立てが開始され、1904年には度重なる長崎港湾改良工事で築造当時の海に浮かぶ扇形の出島は完全に姿を消してしまいました。
出島にはどんな人が住み、どんな人が働いていたか?
通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が7〜8月ごろ来航し、その年の11〜12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人が滞在していましたが、それ以外の期間は※2商館長(カピタン)、※3次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1〜3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(黒人)など15人前後の人が住んでいました。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていました。
出島は長崎奉行の管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。
「出島乙名(おとな)」出島の責任者。貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。
「オランダ通詞」オランダ語を通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていた。大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。。
そのほかに日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など、100人以上の多くの日本人が働いていたといわれる。
※1 西日本尺 1間=6尺5寸=1.9695mで換算

※2 「カピタン」ポルトガル語で、Capitao 隊長・指揮者 オランダ東インド会社の日本支店長に相当する。
※3 「ヘトル」 Feitor 幹事・監督者


ミニ出島写真
(クリックで拡大写真)

ミニ出島(模型)

 この模型は、1820年頃出島オランダ屋敷を描いた川原慶賀「長崎出島之図」をもとに、縮尺15分の1に縮小し製作。
 加美丹別荘、遊女部屋、加美丹居間、通詞部屋、鮫蔵、乙名部屋、砂糖蔵、丁字蔵等の建物、旗竿、板塀、漆喰塀、木柵、洗面場、池なども復元し、周囲に水を張り、往時の「出島」のたたずまいを再現したものです。
川原慶賀  20才代後半(1811年)出島出入りの絵師となる。シーボルトから写実的西洋画法を習い、多くの風景・動物・植物を描いている。

水門(荷揚場)

水門(荷揚場)

 出島の西側にある門、この門は表門より重要な役割をもつ出入り口で、西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした建物(水門)です。 前面は荷さばきのための広場と階段状の荷船用桟橋になっていました。輸出入品の搬入搬出は必ずこの水門をつかい、荷下ろしの際は長崎奉行の役人の目前で行なわれていました。また、荷の積み下ろしをするために、沖合いに停泊するオランダ船との間を行き来する人はこの水門で身体検査を受けました。 貿易時以外はこの水門は固く閉ざされ、門の内外から封印させていた。 2つの通り口があり、南側は輸入用。北側は輸出用に使われました。

カピタン部屋

カピタン部屋

 商館長のことをカピタン(ポルトガル語のカピタオが語源・商館長)と呼んでいた。このカピタン部屋は出島を代表する大きな建物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所やお客(主に日本の役人や大名が出島を訪れた際)をもてなす場としての機能をもつ建物です。 カピタン部屋は屋根付きの三角外階段がシンボル!これが他の建物と大きく違う特徴となっている。
出島の最高責任者であるカピタン(商館長)の部屋は、倉庫の2階に住んでいた商館員に比べ、とってもゴージャスです。
 カピタン部屋の1階では、出島の歴史や生活に関する展示、2階では商館長の生活の様子を復元展示してあります。

乙名部屋(おとなべや)

乙名部屋(おとなべや)

乙名部屋(おとなべや)内部
出島に出入りする日本人役人の詰所!
  日本側で出島の管理実務を一手に担ったのが、長崎奉行が長崎の有力町人から選任した出島乙名です。出島乙名は貿易事務を行うとともに、商館員の監視役でもあった。出島乙名や阿蘭陀通詞など、日本人役人の詰所となっていたのがこの乙名部屋です。 ここは貿易期間中のみ使われる建物。
2階部分が乙名の住居となり、夜は島に滞在できない倉庫番役人、夜警の番人、オランダ船と出島とを行き来する小船を見張る番人などが日中ここに滞在した。建物の造りは町屋風で、式台を備え、内部が大きく三つに分かれています。

一番船船頭部屋

一番船船頭部屋

 一番船船頭とは、オランダ船の船長のこと。2階西側にオランダの船長が滞在していた部屋があり、2階東側は商館員の住まいでした。1851年に来日した船長デ・コーニングの日記などを参考に家具・調度品を再現している。一階は秤(はかり)や不良品の砂糖、木炭が置かれていた倉庫、 2階は船長が使った椅子やテーブルなどを再現。オランダ人の出島での生活のイメージできるようになっています。
一階倉庫写真

1階倉庫

 出島内の建物の多くは1階が倉庫になっていました。
この土間には天秤と分銅、木炭、砂糖の不良品などが置かれていました。天秤は、当時の出島で銅、砂糖の計量に使われたもので、オランダの財団法人デルフト大学計量博物館から出島復元のために寄贈されたオランダの伝統的な天秤です。

ヘトル部屋(オランダ商館長次席)

ヘトル部屋

 「ヘトル」オランダ商館長次席が暮らしていた建物。2階が住まいで、商館長に仕える日本人の使用人も2階の一部を使っていました。1階は東南アジアの使用人が使用していたほか、商館用の食糧を貯蔵していました。
 ヘトル部屋には、当時出島で使われていた「ビードロ」と呼ばれたガラスが、障子枠にはめ込まれてあります。また、洋風の手すりには、オランダから持ち込んだ緑のペンキが塗られてある。
ヘトル部屋2階 物見台

2階 物見台

 当時、ヘトル部屋は出島の中でも眺めの良い場所であった。ここの二階には「物見台」がある。オランダ人は長崎港を眺めながら、遠い祖国を思い出していたのだろう。
 この物見台から湾内の船を眺めるオランダ人の様子が多くの絵画に描かれている。

料理部屋

料理部屋(オランダ商館員たちの料理を作る料理部屋)

料理部屋内部
 出島の商館員は、一日2回(昼夕)、カピタン部屋に集まり食事をとる習慣があり、ここがそのための調理場です。オランダ人のほか、東南アジアの人や日本人の使用人が調理をしていた。天井は防火のため、漆喰塗りにしてある。当時の調理台、鍋、水がめなどが展示してあります。調理道具は、いろんな国の道具が使われている。簡単なものは船で運んできたが、大部分は長崎で調達された。飲料水は商人から買っていた。
調理室図/長崎市立博物館蔵・川原慶賀画「唐蘭館絵巻」より 調理室図/長崎市立博物館蔵・川原慶賀画「唐蘭館絵巻」より
この画を料理部屋内で見ることができる。

出島・長崎出島オランダ商館跡
所在地長崎県長崎市出島町
アクセスバ ス:長崎バス本社前から徒歩3分
電 車:出島から徒歩1分
入館料個人:大人500円/高校生200円/小中学生100円
団体(15人以上):大人400円/高校生120円/小中学生60円


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