長崎・出島和蘭商館跡(でじまおらんだしょうかんあと)

出島和蘭商館跡マップ 説明文 銘板碑文等参考

出島和蘭商館跡

 出島全体は大正11年(1922)10月、「出島和蘭商館跡」として国指定史跡となる。この出島を通じて、日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化・学術の交流が行われ、日本の近代文化に大きな役割を果たした。

出島の由来

史跡出島和蘭商館跡碑

 1570年長崎開港、1571年8月にはポルトガル船2隻が初めて入港以来、渡来するポルトガル人は年々多くなり貿易も盛んになたが、貿易に関する制度や施設が不十分で、取引が終わるまで、ポルトガル人は市内の住民と同居すろようになったことで、いろんな不都合な問題が生じてきた。 キリスト教問題、混血児問題、金銭支払の問題である。
 そのため幕府は1634年長崎奉行に命じ、ポルトガル人との同居を禁止する方針を実施させ。日本人と外国人を隔絶する方策をとる。奉行の許可を得た町人25名の出資によって江戸町海面を埋め立て扇形の出島を築いた。建造費銀200貫目(約4,000両)これを今のお金に換算すると約4億円。
  ※1 総面積は約15,000㎡(3,969坪余)(史跡指定面積 約14,800㎡)
 1637年に起こった島原の乱により、幕府はポルトガル人に対して警戒を強め、1639年、ポルトガル人の来航が禁止されて出島は空き家となるが、1641年長崎平戸のオランダ商館が出島に移され、1859年までオランダ人が218年間入居。
 出島を築いた町人たちはポルトガルやオランダ商館に出島を貸し、築造費にあてようと考え、ポルトガルで年間銀約80貫目、オランダで銀55貫目の家賃を取り、収入は25人で配分した。今のお金で約1億円という金額。
 慶応2年(1866)に出島が外国人居留地に編入されると、急激にその姿を変えていきました。
 明治16年(1883)に入り、出島周辺の埋め立てが開始され、1904年には度重なる長崎港湾改良工事で築造当時の海に浮かぶ扇形の出島は完全に姿を消してしまいました。

出島にはどんな人が住み、どんな人が働いていたか?

 通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が7~8月ごろ来航し、その年の11~12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人が滞在していましたが、それ以外の期間は※2商館長(カピタン)※3次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1~3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(黒人)など15人前後の人が住んでいました。翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていました。
 出島は長崎奉行の管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。「出島乙名(おとな)」出島の責任者。貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。
 「オランダ通詞」オランダ語を通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていた。大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。
 そのほかに日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など、100人以上の多くの日本人が働いていたといわれる。

※1 西日本尺 1間=6尺5寸=1.9695mで換算
※2 「カピタン」 ポルトガル語で、Capitao 隊長・指揮者 オランダ東インド会社の日本支店長に相当する。
※3 「ヘトル」 Feitor 幹事・監督者

出島を結ぶ「出島表門(おもてもん)橋」架設

出島表門橋架設工事

 出島と対岸を結ぶ「出島表門橋」が2017年2月27日(月)、旧表門橋と同じ場所に架けられ、約130年を経て出島のシンボルが再び姿を現しました
 今後は橋の床板や手すりなどの取り付け、周辺の公園整備等が行なわれて2017年11月24日に開通する予定です。
 鎖国期、出島に人の出入りができる唯一の表門橋。出島が完成した1636(寛永13)年には板橋だったが1678(延宝6)年に全長4.5mの石橋に架け替えられ、明治期に行われた長崎港湾改良工事・中島川の変流工事に伴い1888~89年頃に撤去されました。
 変流工事の際に出島の北側が削られ対岸との距離が長くなったことで、今回の表門橋は長さ約38.5m、幅約4.4mの鋼鉄製となり、旧表門橋の復元ではなく現代的なデザインが採用されました。史跡である同商館跡の保護のため、重量の支点を江戸町側に置く特殊な構造となっています。
 完成後は当時の人と同じ目線で、往時のように橋を渡って出島への出入りが体験できるようになります。

出島表門(おもてもん)橋

ミニ出島(模型)

ミニ出島写真

 この模型は、1820年頃出島オランダ屋敷を描いた川原慶賀「長崎出島之図」をもとに、縮尺15分の1に縮小し製作。
 加美丹別荘、遊女部屋、加美丹居間、通詞部屋、鮫蔵、乙名部屋、砂糖蔵、丁字蔵等の建物、旗竿、板塀、漆喰塀、木柵、洗面場、池なども復元し、周囲に水を張り、往時の「出島」のたたずまいを再現したものです。
川原慶賀20才代後半(1811年)出島出入りの絵師となる。シーボルトから写実的西洋画法を習い、多くの風景・動物・植物を描いている。

水門(荷揚場)

水門(荷揚場)

 出島の西側にある門、この門は表門より重要な役割をもつ出入り口で、西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした建物(水門)です。
 前面は荷さばきのための広場と階段状の荷船用桟橋になっていました。輸出入品の搬入搬出は必ずこの水門をつかい、荷下ろしの際は長崎奉行の役人の目前で行なわれていました。また、荷の積み下ろしをするために、沖合いに停泊するオランダ船との間を行き来する人はこの水門で身体検査を受けました。
 貿易時以外はこの水門は固く閉ざされ、門の内外から封印させていた。
 2つの通り口があり、南側は輸入用。北側は輸出用に使われました。

カピタン部屋

カピタン部屋 カピタン部屋

 商館長のことをカピタン(ポルトガル語のカピタオが語源・商館長)と呼んでいた。このカピタン部屋は出島を代表する大きな建物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所やお客(主に日本の役人や大名が出島を訪れた際)をもてなす場としての機能をもつ建物です。
 カピタン部屋は屋根付きの三角外階段がシンボル!これが他の建物と大きく違う特徴となっている。
 出島の最高責任者であるカピタン(商館長)の部屋は、倉庫の2階に住んでいた商館員に比べ、とってもゴージャスです。
 カピタン部屋の1階では、出島の歴史や生活に関する展示、2階では商館長の生活の様子を復元展示してあります。

乙名部屋(おとなべや)

乙名部屋(おとなべや) 乙名部屋(おとなべや)内部

 出島に出入りする日本人役人の詰所!
 日本側で出島の管理実務を一手に担ったのが、長崎奉行が長崎の有力町人から選任した出島乙名です。出島乙名は貿易事務を行うとともに、商館員の監視役でもあった。出島乙名や阿蘭陀通詞など、日本人役人の詰所となっていたのがこの乙名部屋です。ここは貿易期間中のみ使われる建物。
 2階部分が乙名の住居となり、夜は島に滞在できない倉庫番役人、夜警の番人、オランダ船と出島とを行き来する小船を見張る番人などが日中ここに滞在した。建物の造りは町屋風で、式台を備え、内部が大きく三つに分かれています。

一番船船頭部屋

一番船船頭部屋

 一番船船頭とは、オランダ船の船長のこと。2階西側にオランダの船長が滞在していた部屋があり、2階東側は商館員の住まいでした。1851年に来日した船長デ・コーニングの日記などを参考に家具・調度品を再現している。一階は秤(はかり)や不良品の砂糖、木炭が置かれていた倉庫、 2階は船長が使った椅子やテーブルなどを再現。オランダ人の出島での生活のイメージできるようになっています。

1階倉庫

一階倉庫写真

 出島内の建物の多くは1階が倉庫になっていました。
 この土間には天秤と分銅、木炭、砂糖の不良品などが置かれていました。天秤は、当時の出島で銅、砂糖の計量に使われたもので、オランダの財団法人デルフト大学計量博物館から出島復元のために寄贈されたオランダの伝統的な天秤です。

ヘトル部屋

ヘトル部屋(オランダ商館長次席)

 「ヘトル」オランダ商館長次席が暮らしていた建物。2階が住まいで、商館長に仕える日本人の使用人も2階の一部を使っていました。1階は東南アジアの使用人が使用していたほか、商館用の食糧を貯蔵していました。
 ヘトル部屋には、当時出島で使われていた「ビードロ」と呼ばれたガラスが、障子枠にはめ込まれてあります。また、洋風の手すりには、オランダから持ち込んだ緑のペンキが塗られてある。
 二階は出島で行っていた当時のゲーム等ができる体験展示室があり楽しく遊ぶことが出来ます。(体験展示室)

2階 物見台

ヘトル部屋2階 物見台

 当時、ヘトル部屋は出島の中でも眺めの良い場所であった。ここの二階には「物見台」がある。オランダ人は長崎港を眺めながら、遠い祖国を思い出していたのだろう。
 この物見台から湾内の船を眺めるオランダ人の様子が多くの絵画に描かれている。

料理部屋(オランダ商館員たちの料理を作る料理部屋)

料理部屋 料理部屋内部

 出島の商館員は、一日2回(昼夕)、カピタン部屋に集まり食事をとる習慣があり、ここがそのための調理場です。オランダ人のほか、東南アジアの人や日本人の使用人が調理をしていた。天井は防火のため、漆喰塗りにしてある。当時の調理台、鍋、水がめなどが展示してあります。調理道具は、いろんな国の道具が使われている。簡単なものは船で運んできたが、大部分は長崎で調達された。飲料水は商人から買っていた。

調理室図/長崎市立博物館蔵・川原慶賀画「唐蘭館絵巻」より

調理室図
長崎市立博物館蔵・川原慶賀画「唐蘭館絵巻」より
 この画を料理部屋内で見ることができる。

一番蔵(バラ)

一番蔵

 主に輸入品である砂糖の収蔵庫として使用されていたが、その時々に応じてさまざまの輸入品を収めていた、壁の厚みが30cmの日本式の土蔵。
 オランダ人は倉庫を花の名前で呼び、この一番蔵は「バラ」蔵と呼ばれていた。
 建物内部は、発掘調査で、外周の基礎石が見つかり、室内の床の一部を切り取り遺構を公開してあり、また、復元設計や工事の過程も、分かりやすく写真や模型で紹介してあります。

二番蔵(チューリップ)

二番蔵

 「チューリップ」蔵と呼ばれた倉庫。  蘇木(そぼく)あるいは砂糖を収めた収蔵庫です。蘇木は、染料との元となります。蔵の窓は4重窓で風水、盗難、火災、ねずみ侵入に備えた。このように大規模な土蔵は、長崎市内ばかりではなく、全国的にも類例が少なく珍しいものです。
 1階では「貿易と文化の交流」をテーマに、出島に出入りした様々な貿易品の資料を展示してあります。
※ 蘇木:蘇枋(すおう)の木 マメ科の植物、樹皮が赤色染料とされた。

三番蔵(アンニェリール)

三番蔵

 ピンクのカーネーションをさす「アニェリール」と呼ばれた蔵です。
 主に輸入した砂糖を収める倉庫ですが、他に個人商売用の脇荷の収納にも使われていました。この蔵は、もとは一番蔵・二番蔵のような漆喰塗りの蔵であったが、海に面する出島は建物の傷みが激しく、倉庫の外壁もたびたび修理していました。徐々にこの蔵のように羽目板をはった姿に改修されてきました。

拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)

拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)

 帳簿などの筆記を行うオランダ人の首席事務員がこの二階に住んでいた建物。
 発掘調査で水槽状の施設や排水溝と思われる遺構などが見つかっています。また、土中からは水銀が検出され、工房や医薬関係など、ここで特殊な仕事をしていた可能性が考えられると言われています。
 一階では、出島から入ってきた蘭学等が紹介されています。

新石倉(出島シアター)

新石倉(出島シアター)

 新石倉は慶応元年(1865)に建てられた石造平屋建ての倉庫で、安政6年(1859)に出島オランダ商館が閉鎖された後の建物です。長崎市が昭和42年(1967)に買い上げ、昭和51年(1976)に一部旧材を使い復元されています。
 映像で、阿蘭陀通詞(おらんだつうじ:オランダ語の通訳)が、出島での貿易の様子やオランダ商館員の暮らしぶりなどについて、紹介する施設「出島シアター」として活用されている。

表 門

表門

 出島表門は、オランダ商館があった当時、出島表門橋を通じて長崎市中と出島をつなぐ唯一の出入り口で、ここには常時番人がおり、出入りする人たちを取締りました。取締りは厳重で、当時は2人制でしたが、のちに3人制、5人制となり、昼夜の区別なく交代で警備が行われていました。
 出島の出入りは役人や阿蘭陀通詞などに制限されており、それ以外の者は乙名(町役人)が発行する門鑑を提示しなければ、出入りを許されませんでした。
 現在の表門は、明治期の港湾改良工事により出島の北側が約18m河川に削り取られているため、実際の場所より南側に、市制施行100周年記念事業の一環として平成2年(1990)7月に復元されました。

旧石倉(考古館)

旧石倉

 旧石倉は2階建ての石造倉庫で、安政6年(1859)に出島オランダ商館が閉鎖された後の建物です。昭和31年(1956)に残っていた礎石の上に古写真等を参考にして、倉庫の半分を復元し、更に平成8年(1996)に整備復元した倉庫。
 一階は、出島から出土した遺物を中心に展示されています。二階は、石垣復元整備について紹介してあります。

出島史料館本館(旧出島神学校)

出島史料館本館(旧出島神学校)

 出島史料館本館は、我が国最初のキリスト教新教の神学校として、明治10年(1877)に建てられました。プロテスタント教会建築としては、現存する日本最古の建物です。明治19年(1886)に閉鎖された後は宣教師宿舎として使用されていましたが、明治26年に増築、その後半解体、修理復元があり、現在、居留地時代の出島の様子を伝える貴重な建物となっています。
 一階は入館料金所や売店として利用されています。

旧長崎内外クラブ

旧長崎内外クラブ

 「長崎内外倶楽部」は、明治32年(1899)倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)や荘田平五郎などを発起人として、長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として設立されました。現在の建物は、明治36年(1903)英国人のF.リンガーによって建てられた英国式の洋風建築です。
 当時は、会議室、応接室、遊技場、図書室、食堂、バー等があり、女人禁制だったので婦人トイレは設けてなかったようです。
 現在、二階では居留地時代の写真等の展示がされてあります。

出島の木(県指定天然記念物)別名「コパールの木」

出島の木の木の実 出島の木(県指定天然記念物)別名「コパールの木」

 樹高約15m、幹周り約1.2m。
 幕末の頃、オランダ人によってジャカルタ地方(旧バタヴィア)からもたらされた。日蘭貿易の歴史を物語る貴重な記念樹です。
 南洋杉科の常緑高木で、学名「アガチス・ダマラ」原産地はボルネオ、ジャワ、フィリピンなど東南アジア。
 県指定天然記念物 昭和41年4月18日指定

木の実 大きさはソフトボール大 (観光ボランティアガイド撮影)

出島和蘭商館跡

所在地:長崎県長崎市出島町6-1
アクセス:路面電車:長崎駅前から「正覚寺下」行に乗車、「出島」にて下車、徒歩1分
開場時間:通常/8:00~18:00(最終入場17:40) 入館料:個人(15人未満)・大人510円/高校生200円/小中学生100円 団体(15人以上)・大人410円/高校生120円/小中学生60円
※ 詳しくはこちらへ→出島 Dejima
出島和蘭商館跡マップ